「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGです。かなり不定期な更新間隔。

あの頃の日産が良かった理由~1987年



 1987年の日産は「Be-1」で始まる。1985年の東京モーターショウに出品され大きな反響を受けたコンセプトモデル「Be-1」は、それ以降きわめて短い期間に急ピッチで市販化、開発作業がおこなわれ、晴れて1987年1月に発売を迎えた。限定1万台は2ヶ月ほどで予約がいっぱいになり、中古車市場では大幅なプレミアがついた値段で取引されていくというありさまだった。



http://www.favcars.com/wallpapers-nissan-be-1-bk10-1987-88-208245




 初代マーチをベースにレトロチックなボディや内装を与えただけの、言ってみれば単純な成り立ちのクルマだったが、反響は大きかった。限定品、という響きに弱かったとか、プレミア商品になびきやすいという傾向はあるにせよ、「アタマのカタい日産」が「アタマのヤワラカそう」なクルマを出してきた、というインパクトも小さくはなかった。


 Be-1の企画には社外の人間を起用している。しかもそれは自動車の専門家ではない人物だった。その真意は、時代やトレンドに敏感で、自動車の常識にとらわれない感覚を持った人に一台を託すことで、今まで日産自動車が見えていなかった世の中の思考や傾向、流行りなどをなんとか捕まえていきたいという、願いがあったからだ。そしてこうした、従来の自動車創りの常識から外れたような取り組みさえも貪欲に行なっていこうとするチャレンジ精神が、この頃の日産にはあったということになる。


 これを量産車でやってしまうとそれなりにリスクは大きいが、限定生産車としてなら、コケてもダメージは少ない。結果としてそれは良い方に転び、人気を高める要因になったことは、はたして日産の計算通りのことだったであろうか。


 久米社長の社内改革の成果が現れ始めたのは、6月発売のY31型セドリックからではなかっただろうか。


 三坂泰彦主管によって生み出されたヒット商品「グランツーリスモ」や、若林昇デザイナーによる「承認デザインやり直し事件」など、エピソードにコト欠かないY31セドリック。それまでの社内慣例を破って彼らが「好き勝手」にクルマ創りを「謳歌」したからこそ、セドリック、グロリア、ひいては日産自動車そのものに「新しい風」を吹き込むことにつながっていった。それができたのも、久米社長が先頭に立ち、社内改革を行ない、自由なクルマ創りを推し進めてきたからに他ならない。



http://www.favcars.com/pictures-nissan-cedric-hardtop-y31-1987-91-208457



 三坂主管は設計者や開発スタッフたちに、客宅へ直接出向き、顧客の意見を聞いてくるように指示を出す。営業出身であった三坂主管にとって、いまひとつ開発陣が顧客の声を聞き取れていない、あるいは、聞こうとしていないように見えていたのだ。顧客が従来の製品に何を感じ、またこれから生み出される製品に何を求めているのか。社内の机上の理論やアンケートデータではない、生の声に耳を傾けるという、人としての「体験」こそがより高感度な製品創りに結びつくことを三坂主管は知っていた。


 Y31セドリックの特徴は、従来型やライバル、クラウンに比べてずっとパーソナルな印象を引き立てて作られているということだ。常識をブチ破るというのはもしかすると簡単なのかもしれない。しかしブチ破った先に顧客が腑に落ちる、しかも新しいコンセプトが存在している必要がある。その意味でY31には新しい「提案」があった。


 「走る高級車」は明らかにそれまでの高級車像にはなかった要素だった。しかし実際にセドリックというクルマはユーザーの高級志向の高まりにつれて、自らハンドルを握る「オーナードライバー」が増加する傾向が見られていた。しかし彼らは「走り」に不満を抱いている。そんなユーザーへの、「グランツーリスモ」は新しい提案に他ならなかった。馬力があってハンドルを握るのが楽しく、ましてや若々しいデザインもいい。こういうクルマを待っていたのだ。「グランツーリスモ」は大いに売れまくった。トヨタには絶対数で負けていたかもしれないが、日産の追い上げの激しさの方に、多くの人の目が奪われていったことだけは事実である。


 なにより、常識や慣例にとらわれず、自由に、信ずるままに行なったクルマ創りが受け入れられ、シェアを取り戻す大きな要因となっていったことは、日産自動車にとってさらに自信を深める経験となったに違いない。自信を取り戻すには、まず「行動」なのである。そしてその行動力を阻害しない組織作りが大切なのは言うまでもない。


 1987年はブルーバードのフルモデルチェンジイヤーでもあり、8代目に生まれ変わっている。ブルーバードは評判の高かった910型のイメージを踏襲してFF化したU11型が、やはり不振で、伸び悩んでいた。なにより敗因は910型のイメージを崩さないようにと、新しいチャレンジをせずに描いたデザインによる、保守的でネガティブなイメージにあったことを、日産自身が認識していた。時に強烈な自己否定を下すことになんの恐れもない気迫のようなものが感じられた。


 新U12型を作るにあたって、若々しく新しさを感じさせるデザイン、ブルーバードの名に恥じない動力性能や運動性能など主眼として開発が進められた。その意味ですべきことは、やるまえから明快だったのかもしれない。



http://www.favcars.com/photos-nissan-bluebird-sss-twin-cam-turbo-hardtop-u12-1987-91-211147



 常識的なカタチをしているのに、細部まで見ると美しいシェイプになっている。全体を通した印象がクリーンで厭味がなく、そして新しい。内装もシンプルで明るく、センスの良いテキスタイルを用いて新しい生活感の提案をおこなっている。やるべきことがわかっていて、ブレがなく、高感度にクルマ創りを行なっている様子が、このクルマからはありありと感じられた。


 また、ハンドルを握って楽しい、というのはパルサー以来、日産車に共通する特徴で、このクルマには新たに進化した4WDシステム、アテーサを搭載し、高出力化への対策のみならず、雪国需要への適切な対応でも大きく意味を持っていた。4WD特有のクセを打ち消し、確かなトラクションと楽しいハンドリング、スムーズで快適な乗り心地を両立。その完成度の高さに日産自動車の実験部門が大きく力を発揮していたであろうと想像できたし、また、そうしたバックボーンが、走りのセダン、「新ブルーバード」の評判をさらに押し上げていたようにも思う。「アコースティックな走り」、言い得て妙、であった。


 この年に日産から発売されたクルマからは、掴みかけた自信が「ホンモノ」になりつつあることが強く感じられた。そのベースには、社を挙げた様々なチャレンジがことごとく顧客に受け入れられ、成功して行ったということがある。手探り状態から行動を起こし、一つ一つの手応えを感じながら自らのあるべき姿を捕らえようとするポジティブなスタンスが、この頃の日産には既に出来上がっていた。


 そうしたクルマ創りを、多くのユーザーが待ち望んでいたこともまた確かである。この頃の日産を見ていると、「数が出ること」よりも、「ユーザーが喜ぶこと」の方に強く意識を傾けていたような気がする。それは、日産自身がユーザーの声に耳を傾け、アンテナを張り巡らせ、何を欲しているのか、何に喜ぶのか、という観点に立ってユーザーの動向を観察できていたことの成果だろうと思う。日産とユーザーのクラッチは確実につながり、歯車が回り始めていた。





つづく。



2016.10.3
前田恵祐

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