「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGです。かなり不定期な更新間隔。

あの頃の日産が良かった理由~要因分析




 1980年代後半。あの頃の日産が良かった理由・・・



 やや駆け足ではあったが経緯や出来事、ディテールを、順を追って検証してみた。するとやはりはっきりと見えてくる「成功」のファクターというものがあって、ただ単に、様々な偶然が重なっただけでこうなったのではないということが言えるのではないかと思う。いや、偶然の要素もあったとは思う。しかしその偶然を日産は取りこぼすことなくチャンスに変換し、自らの力で這い上がったのだ。



リーダーシップ

 やはり大きな要素として書いておかねばならないことは、リーダーシップだろう。特に1985年に社長に就任した久米豊氏による社内改革、すなわち、組織偏重型の縦割り行政から、より横糸を重視した組織改定と、自由な発想を許すリベラルな社風を目指す「音頭」が大きくモノを言っていることは確かである。


 それ以前からの長年にわたって日産の足を引っ張った労使問題に端を発する経営不全は前社長の石原氏によって解消に向かい、その後を襲った久米氏による新しい価値観を創造できる新しい組織作りが会社内に新しい、爽やかな風を吹き込ませたと想像に難くない。



うっ積していた想い

 同時に、日産自動車社内、社員の間にも、自由で現代的な発想のクルマ作りが出来ていないこと、その原因が社内統制が過剰であることなどへの不満は明らかにうっ積していたはずである。事実、セドリック/グロリアの若林デザイナーは、入社後、急速に組織立った行動が求められ、顧客の顔より上司の顔を見ながらの仕事に変わって行った、という旨の発言をしている(むろんこれはその後改まり、よい製品を生み出せる環境が整っていく)。これは、経営不振が雪だるま式に社内の雰囲気を硬直化させ、社員統制を過剰に強めた結果であると考えられる。


 だから、なにも日産社員一人ひとりがクルマ作りにセンスのない、無能な人物の集まりだったというわけではないのだ。


 むしろ彼らは技術に強い日産を志願し、より自分の信念に忠実に、すばらしい製品を開発することを希望して入社し、集結していたはずである。それが、社内政治によって身動きが取りづらくなり、発言の自由も奪われ、新しい発想も生かされない社内土壌の上に立つという現実を、おそらくや唇をかみ締めるかのような想いで受け止めていたに違いない。



堰を切ったチャレンジ

 そんな土壌にあって、久米社長の号令や各々の中に積もっていた、クルマ作りへのアイデアや情熱は、少しずつ形を成していく。その一つはもしかするとパルサーのビスカスカップリング(と、その採用にまつわるエピソード)かもしれないし、思い切って社外プランナーを起用したBe-1もそうかもしれない。


 アイデアをカタチにしながら、そしてそれぞれは着実に評価を高め、日産は自らのクルマ作りへの信念が間違ってはいなかったことを確認したはずだ。


 そしてチャレンジの成功は次なる大胆なチャレンジを生み、成功の連鎖とも呼べる、しかも単なる売上高という数値だけに留まらない、ファンやユーザー、社会をも巻き込んだ巨大なエネルギーとして日産は活気づいていく。



客の顔を見ている

 そして何より大事なのは、この頃の日産が、そのスタート地点として、自信喪失、手探りでのクルマ創りという状況にあった(と想像できる)。だからこそ、より「客の顔」を見ようとし「客の声」に耳を傾け、「トレンド」へのアンテナも敏感に作動していたのではないだろうか。この、従来の日産のクルマ創りにおける大きなウイークポイントを、彼ら自身が気づいて克服したことは非常に大きかったと思う。


 僕は今回のこのシリーズの文中に何度か「高感度」という言葉を用いているが、この頃の日産はとにかく「高感度」だった。とてもいいレシーバーを持っているという感じだった。


 セドリック/グロリアの三坂泰彦主管による、開発スタッフへの客宅訪問など象徴的だったのではないだろうか。それまで技術に自信を持っていた日産社員だったが、果たして顧客側に立ち、顧客の本音というものに触れたことがあったであろうか、ともすると独りよがりにはなっていなかっただろうか・・・という疑問が、営業出身の三坂氏にはあった。本当に顧客が欲しがっているものが分からなければ、その風、空気を感じなければ良いものは出来ない・・・果たしてY31セドグロは大成功した。


 また、当時の各車の開発ヒストリーを読み返してみると、開発者の発言とその言葉遣いとして、「ヒトとしての分析」というものが色濃く反映されていることに気がつける。過去にわたって膨大に集められたデータや市場調査、アンケートのたぐいは、あくまでも過去のものでしかなく、そこに頼っていては、常識の範疇を超えたモノ創りはできない。しかし当時の彼らはやはり顧客の生の声をとても重視して、その上に、自らのクルマ人としての「分析」や「勘」のようなものを磨いていたと僕は思う。


 リサーチ会社を通さない、独自で開いていたグループインタビューや、先の客宅訪問などは、やはり大きく意味を持っていたのではないか。



顧客とつながる

 これら経緯や経緯、開発手法などにより日産が得たものとは、なにより「顧客とのつながり」ではないだろうか。これまで、いうなれば顧客にソッポを向いてクルマ創りをしてきた彼らにとって、この1980年代中盤から後半にかけての出来事は、顧客とともに良い製品を生み出すという、しごくまっとうでありながら、しかし一度なりとも凋落を見せた巨大企業としては得がたい財産だったと思う。


 その結果が「シーマ現象」であり、「日産現象」である。


 日産は顧客の心理をつかみ、また顧客もそんな日産についてくるようになる。すると次第次第に顧客の期待値はどんどん高まり、世の中には「好感度」として捉えられていく。「高感度」なクルマ創りが高じて「好感度」に変換されていく、これもこのときの日産が生み出したミラクルの一つだと思う。



ライバルと比べて

 そんな、当時の日産自動車のチャレンジ精神や開拓精神溢れるクルマ創り。それは従来型の常識のワクで保守的な人気を手堅く守っていたトヨタ自動車のそれとは、まったく異なり、若々しく想像力(創造力)が高く、まるで生命感にすら溢れる、新しいクルマ創りの提案があり、また、それが大きく支持を受けた。


 顧客にとっては、何より目新しく、それまでまったく元気のなかった企業、日産自動車が自ら息を吹き返し、自信を蓄え、魅力的な製品をどんどん世に送り出してはトヨタに泡を吹かすという構図が、じつに痛快以外の何者でもなかったはずだ。


 むろん、トヨタにはトヨタの製品創りを支持する顧客も存在し、トヨタがまるで売れなくなってしまったわけではない。確かに時代背景として市場は拡大の一途を辿っていた時代でもあり、過剰な食い合いにもならず、顧客にとっては嗜好をはっきりとさせる、より個性を尊重できるクルマのチョイスができる「自由さ」に楽しさを思えたはずだ。


 あの頃の日産は、トヨタの後追いや、従前の常識にとらわれるということを徹底してやめた。それはモノ創りのスタンスとして、ごくまっとうなものではあるけれど、それまでの自信喪失状態から、他社依存をやめるというところに至るプロセスには、相当な苦労があったに違いない。



僕の感想

 とにかくあの頃の日産はとても見ていて楽しかった。凋落から徐々に自信を取り戻し、チャレンジが実を結び、評価も高まる。すると売り上げも伸び顧客からの信頼や期待も同時に獲得していく・・・そんな成功の軌跡のようなものをあの短時間に見ることが出来、リアルタイムで肌に感じられた経験は、とても貴重なものだったと今では思っている。


 ただ楽しいとか、クルマが良かった、という個別のディテールはいくらでも書き出すことはできたと思うが、それではあの当時の日産自動車の成功のカギというものを「適切に」文書表現できるものではないと思い続け、そしてここへきてやっとアイデアも熟し、このシリーズを書き出すきっかけとなった。


 あの頃の日産自動車を一言で言い表すとしたら何になるのだろう・・・


 それはやはり「冒険」ではなかっただろうか。クルマ屋としての素地はきちんとある。しかし売れなかったからどんどん保守的に、シュリンクしたモノの考え方になり、そして自信を喪失した。しかし、「このままではならぬ」「死んでも死に切れるか」とばかりに、過去の重荷を振り切るかのように大胆に立ち居振舞い「冒険」をも辞さなかった結果が80年代後半、日産の成功のカギではなかったかと思う。これを「日産一揆」と呼ばずして何を呼ぶ。



http://www.favcars.com/nissan-pao-canvas-top-1989-90-images-209554




 つづく。



 
2016.10.15
前田恵祐

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