「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGです。

あの頃の日産が良かった理由~当事者に聞く(1)【前編】


 「あの頃」の日産自動車を振り返り、何か新しいヒントや考え方を見つけ出したい。そんな思いでこのシリーズの記事を書いてきたが、もう一つ物足りなさを感じていた。過去の文献、書籍、資料などで存分に調査はしたものの、それはあくまでも断片的な情報に過ぎず、また、他人の目を通して作成された原稿に過ぎない。


 ここで「検証」というフェーズを踏んでおこう。


 やはりY31だと思った。


 Y31型セドリック・グロリアについては、調べれば調べるほど当時の日産自動車が抱えていたスランプに立ち向かう力が働いていたことが分かる。当時初めて目にしたY31型セドリック・グロリアからは単なる若々しさだけでなく、古いものをブッ壊す「破壊力」、そして、何かを成し遂げた者だけが見せる「爽快感」が強く感じられた。


 なにより魅力的だと思ったのは、「承認デザインやり直し事件」(筆者が勝手に命名)である。すでに役員のハンコをもらって、これで行く、と決まったデザインをどうしても気に入らなくて、チーフデザイナーだった若林昇氏が「自主的」にクレイモデルを作り替えてしまった「事件」。その結果、Y31型セドリック・グロリアは大成功を収め、その後の日産が立ち直るきっかけとなった。


 今回は、その張本人とお会いし、「事件の真相」に迫る。


 若林昇さんは昭和16年、京都生まれ。昭和42年に日産自動車に入社。第二造形課に配属となり、サニーやトラックなどの商用車のデザインにも携わった。代表的な作品はS10シルビア、S130フェアレディZ、F31型レパード。のちに第二造形スタジオ主担として、Y31型セドリック・グロリア・シーマのエクステリア・チーフとして辣腕を振るわれ、セドリックシリーズを成功に導き、さらには、80年代後半における日産自動車の成功の原動力となったお一人である。



++++++++++++++++++++++++++++++++++++



前田:Y31型セドリック・グロリアが出てきた時に日産自動車がそれまで抱えていた内部的な問題だとか、スランプのようなものを、ものすごく大きなブレークスルーをして、このクルマがやってきたというのを、本で読むしかなかったわけですが、非常によく伝わってきまして。あの頃の日産を語る上での原点はやはりY31になるのだろうなと、考えていました。そしていくつかの資料や文献を漁っていきますと、やはり何名かの方が、非常に、精力的に活躍をされたという・・・

若林さん:そうそう、言うこと聞かないのがいたからね・・・

前田:それは、どなたでしょう?(笑)

若林さん:僕も(言うこと)聞かなかったからね・・・(笑)



 冒頭に、若林さんのこのお言葉を聞けただけでも今回、お会いできた価値があったと思った。続けて若林さんは、日産自動車におけるカーデザインの黎明期のことからお話しくださった。



若林さん:日本の自動車産業の黎明期には海外の製品のアイデアを取り込んでメカも含めて、学習していた時期がありますよね。そのころからではあるけれど、デザインというのは、企業の中では「わからない部分」だったわけですよ。好きな奴に任せるしかない、みたいな。それが昔の自動車会社におけるデザインの概念ですよね。



 若林さんの日産自動車入社は昭和42年である。その頃というのはまだカーデザインへの認識も今とは異なり、会社の中でも特異なポジションだったことが窺われる。しかしそれだけに、あまり口出しをされるようなことも少なく、思い通りのデザインを描くことがしやすかったとも言う。



若林さん:だから、その頃というのはデザイナーと呼んでいいかどうかはわからないけれど、組織的にではなく、個人的に、いろいろやれた時代、というのかな。その頃は、デザイン以外の部署も含め、会社全体に、欧米に追い着けでしたから、デザイナーの海外での教育に会社も積極的でしたね。それぞれの個性を活かした、気合の入った作品を熱意を注いで作っていくわけですね。



 日本における自動車産業がまだあらゆる意味で「手探り」だった時代。しかしそんな時代だったからこそチャレンジはしやすかったのかもしれない。事実、その時代に生まれた名車というのは数多い。ハコスカやトヨタの2000GTなどはじつにこの時代を代表する名車といっていいだろう。しかし・・・



若林さん:それから企業として成長して来るに従って、組織的にモノを作る、しかも勢力争いのようなものも生まれて、何もかも管理しようとするような動きというのが、どうしても出て来るわけです。「素人にもわかるようなデザインにしろ」みたいな。そもそも役員なんてものはデザインを学んだ人たちではないから、これはとんでもなく手間がかかる。デザイナーも、デザインそのものより役員を説得することが仕事になっていくようなところがあって、どうしても、説得しやすいようなデザインをするようになっていってしまうんですね。

前田:わかりやすいデザインになっていく、ということですね?

若林さん:と云うより、「説明的なデザイン」になってしまう。アイデアとしてはもっと先鋭的なものはあるけれど、会社の仕事としてするとなるとどうしても説明しやすい、役員に理解されやすい、承認されやすいものになってしまう。



 企業として規模が大きくなり、動いているカネも大きくなればなるほど、計画的に、かつ組織的統制のもとに仕事をすることになるのは、なにも日産自動車に限ったことではない。しかしそのために失われてしまうコト、というものもある。



若林さん:例えばデザインに対してなんとか理論的な裏付けを求めようと、リサーチ会社を使ってアンケートを取ってデータを集めようとする。会社の中でも組織立った会議で物事を順番に決めていく。きっちり日程通り物事を進めるとか、そういう枠組みに(デザイン部門も)はまってしまって、スケジュールからお金勘定から、何日遅れたらいくら損するとかね、そういう話になっていくわけです。利益を追求する使命のある会社組織ですから当然の方向ですが、不充分な出来と思っていてもスケジュール期限切れで終わらざるを得ない。



 計画性や組織性のようなものが際立ってくると、仕事としてはどうしても回りくどくなる。そこで失われていくのは、デザイナーとしての鋭い感性であり、アイデアの鮮度のようなものでもある。やはりクリエイト職には組織よりも個人の感覚やノウハウ、豊かな経験がもたらす直観が大切なのだ。



若林さん:日産にはかつて労組問題がありましてね。デザインの決定に会社と組合が衝突するなんて事もありました。



 こうした部分がさらに統制を強め、「鋭い感性」や「新鮮なアイデア」をスポイルしていくことになる。保守的な考え方に支配されていくというのは、こういう過程を踏むということなのだろう。



若林さん:そうするともう、誰に向かってモノを作っているのかわからなくなってくるわけです。会社で承認されるために作っているのか、お客様に喜んで頂くために作っているのか、わからなくなる。それでどんどん説明しやすいもの、高級車は大きく立派なモノ、という固定観念から離れられなくなってしまったわけです。それがY31のひとつ前のY30になりますね。もう真四角で5ナンバー枠一杯に作った。

前田:昭和58年型ですね。

若林さん:そうですね。車の売れ行きが悪くなると、工場のプールに在庫車がどんどん溜まっていくわけですね。それもただ放っておくわけにはいかないからちゃんとメンテナンスする手間暇もたいへんなんです。そんな在庫がいたるところに増えていくようになってくるわけで。



 そんな、当時の日産自動車。とはいえ、なにも手をこまねいていたわけではなかった。



若林さん:お客さんに直接話しを聞くというのをやっていましてね、他のメーカーでもやっていたかもわからないけれど。



 やはりやっていた、顧客へのインタビューである。人と出会って会話を持つことが、作り手としての貴重な経験となり、そんな中から大きなヒントがもたらされることもある。



若林さん:一人、歯医者さんから聞いた話なんだけれど、セドリックもいいんだけど、その歯医者さんの仲間内では皆外車に行っているというんだよね。セドリックを買ってもその上、ないでしょ?って。「その上」にみんな行きたいと思っているんですよ、なんて話があった。それがずっと頭の中に残っていてシーマを作るきっかけになったんですね。



 セドリックの次に来るものを、既に顧客は求めている。現状のラインナップではそれを追従すらできていない。こんなあたりがシーマというクルマが誕生していく「種」となったようだ。まさに、「歯医者さんのアイデア」である。また、こうした活動の中から、開発陣は自らが生み出す製品と、顧客が求めているモノとのズレを認識していくことになる。



Y31型セドリック・グロリア「承認デザインやり直し事件」の真相


前田:個人的にですが、一番象徴的なのが、Y31型セドリックのデザインに取り掛かった若林さんが、秦野運動公園(秦野市中央運動公園)で、デザインのヒントを掴んだ?

若林さん:ああ、それどこかに出てるの?(笑)

前田:当時の書籍で読ませていただきました。しかしこれは象徴的な出来事だな、と。この大きなモメントになるご経験をされた若林さんですが、これをきっかけに何かが変わっていったのだろうなと、読んでいて強く印象づけられました。

若林さん:秦野運動公園にテニスコートがありましてね。そこでプレイし終えた集団がいた。あれは会社のサークルかなにかだったんでしょうね、若い女の子は皆ソアラなどの助手席に乗ってさっさと行ってしまったのに、課長さんクラスの中年の男性が一人旧型セドリックで取り残されているのを見たわけです。なんだか寂しいなあと。「堅苦しいイメージで遊び心ってものがないよなあ」と強く思いましてね。もっと若々しく、なんというか、現役志向というんでしょうか、そういう感覚が欲しいと思いましたよね。



 旧Y30型が向かっていた方向性はどちらかというと威厳のある、立派な、もっというと近寄りがたい年長者、というイメージだった。それゆえこれはある意味仕方がないところではあったが、しかし、実際の顧客のライフスタイルにはマッチしていないことだけは確かだった。こうして実際に目にしたシーンから、どんなものが求められ、またなにを新しいと感じてもらえるのか、それをいかにして製品に置き換えていくかという能力、あるいは「触媒」を持つのかが作り手というものであり、優れたデザイナーということになる。



前田:やはり生産型のY31は「若々しさ」がキーになっていますよね。

若林さん:その頃すでにY31のデザインは「これで行く」という会社としての承認も出来ていたんです。それでも以前よりずっと角を丸めて若々しさを出したつもりだったのですが、社長も、どこか今ひとつという顔をしていた・・・

前田:若林さんも今ひとつ、とお思いになっていたわけですよね。

若林さん:そう。今ひとつしっくりこない感じがね。



 ここにひとつのブレークスルーというものがあった。



若林さん:それじゃあ、いっそのこと変えちゃうか、と。担当デザイナーの国本君とも相談して、思い切ってこうしようと・・・

前田:変えちゃった(笑)、「自主的に」・・・

若林さん:変えちゃった(笑)。



 30年前、僕がY31型セドリック・グロリアから感じた「破壊力」や「爽快感」の源はここにあった。



提案されたデザイン案を見ながら、当時のことを話してくださった若林さん。



若林さん:やり直しというのも、承認案のモデルにそのまま手を加えて作り替えちゃったから設計部門は大変ですよね。なんといっても測定点が全部違ってしまうから強度計算なんかもまったく変わってきてしまう。後は大へんな作業ですので、随分と迷惑をかけたと思います。

前田:それは、組織の中では「スタンドプレー」みたいなものですよね。

若林さん:まわりから見ると、そう思う人が居たでしょうね。でも、当時の感覚としては、これではどうにも売れそうにないぞ、大変だけど、何とかいいものを創りたい一心だったのですがね。



 やはり、磨かれた直観がモノを言うわけである。



若林さん:だからよその部署の事などを考えている場合じゃないという感覚だったかな。とにかく時間もなかった中で、角を落として丸くして、ということをやって、いろんなところを修正して。それで、女の子のウケは非常に良くなったんですよ。特に営業の女の子はみんないいねと言ってくれましたよね。だから、これはひょっとするといけるかもしれないと、その時思いました。

前田:そうするとやはりあの時、秦野の公園でご覧になった光景がひとつのきっかけとなって・・・

若林さん:そうだよねえ(笑)、それでモノになったから良かったけど・・・



 このお話しを聞いて「終わりよければ全て良し」を思った。と同時に、直観に従い数々の規則違反やスタンドプレーで軽快に事件を解決していく、型破りな警察官を描いたフィクションドラマ「あぶない刑事」を思い出してしまった。そう、あの頃あぶない刑事をやっていた。やっている最中に、毎週夢中で見ている最中に、Y31型セドリック・グロリアが世に出てきたのだった。あぶない刑事のラストシーンはいつも「終わりよければ全て良し」だった。が、若林さんの話は全てノンフィクション、実話であるというところがミソである。じつにもってアブナイ。



前田:そして「自主的」に行なったリファイン案を持って、当時新しく社長に就任された久米さん(久米豊氏)に直接承認をもらいに行ったと聞きました。

若林さん:実際には役員会に再提案、という手続きだったと思いますよ。それが三坂さんの「初仕事」だったわけです。



 三坂さんとは、昭和60年からY31型セドリック・グロリアの商品主管を務めた三坂泰彦氏のことである。自動車の商品主管(責任者)としては異例の抜擢となる営業部門からの登用だった。三坂さんもこの「デザインやり直し」をきわめて前向きに捉え、再提案、再承認という「良い流れ」を作ったことで、Y31型セドリック・グロリアの開発チームに、さらに前向きなムードが加速していったことは想像に難くない。



若林さん:三坂さんもリファイン案を気に入ってくれたというのが大きいですよね。三坂さんからもいくつか細かい注文を受けて少しずつ修正したと思いますが、その上で、役員会に再提案、という流れだった。この頃、商品主管制度というものが出来て、商品全ての責任を持つことになり、「商品主管が良いというならそれでいい」という結論でね。

前田:久米さんが社長就任された時に「もう社内理論で仕事するのはやめましょう」と仰っていましたよね。

若林さん:デザインに関してはやはり「経営陣にはわかりゃあしないんだから」みたいな考えの人でしたし、それに組織的にやってきて実際に売れなくなっちゃったという現実にも直面していたわけですよね。だから、余計な口出ししたら責任問題になる(笑)みたいな、そんな感じだったんじゃないでしょうかね。



 社内的にも、どうやら従来の、組織重視の考え方では良いものは生み出せないという気運が高まっていた、ということのようだ。とはいえ・・・



若林さん:Y31のデザインには工場の人からの反対が大きくてね。こちらとしては売れないと稼働率は下がるし残業もできないしと、気を使って作ったつもりなんだけど、やっぱり今までと違って立派に見えない、小さく見えてしまうのが不満だったみたいですね。



 当然、「説明」が求められる。



若林さん:こんなの売れるわけないじゃないか、って話になって、三坂さんと二人で工場に説明しに行きましたよ(笑)。工場の、課長、係長、役員・・・何人いたんでしょうかね、何十人と目の前に並んでいるわけですよ。するとね、会議室のドアに紙が貼ってあって、「良いと思う人」「良くないと思う人」って正の字がズラッと書かれているわけ(笑)。しかも「良いと思う人」は三人くらいしかいないわけ(笑)。そんなのを見せられて、「どこがいいんだか説明しろ」と言われる。まだ着任したばかりの三坂さんと二人で汗かきながら説明してましたね(笑)。



 今変わらなければ、事態はいつまでも動かない、不良在庫はいつまでも売れない・・・



若林さん:僕ら散々熱弁をふるいましたし、工場長も最後はわかってくれまして、丸く収まりました。それで結局売れ行きが非常に良かったですから、納得していただけたと思いますよ。

前田:そうした社内の反対意見を説得して、売り出したところ売れ行きが良かった、というのが実績になって、その後の仕事がしやすくなったというのもあるのではないですか。

若林さん:それはありますよね。



 こうした数々のブレークスルーは「実績」のつみかさねとなり、次なる成功につながっていく。勢いがつく、とはこういうことだ。結果、走りを重視し大胆なエアダムスカートを備えたスポーティグレード、グランツーリスモを中心として、Y31型セドリック・グロリアは大ヒットとなり、日産ディーラーにはトヨタ車が続々と下取り入庫するのだった。



++++++++++ 以降、後編に続く ++++++++++






2016.12.9
前田恵祐

拍手[13回]