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あの頃の日産が良かった理由~当事者に聞く(1)【後編】


 この頁は 「あの頃の日産が良かった理由~当事者に聞く(1)」【前編】 につづき、日産自動車OBでY31型セドリック・グロリア/シーマのチーフデザイナーを務められた若林昇さんにお話を伺い、魅力的な商品創りへのカギやヒントを紐解くインタビューの内容をまとめたものである。



 シーマとインフィニティの微妙なカンケイ


前田:そこで、ちょっとお話は前後してしまうんですけれども、シーマをやろうということになって、三坂さんたちとお酒の席でなんとか3ナンバー車をもうひと工夫、というふうになって、それでまず、Y31セドリックの1/1モデルを拡大したものを作ったのが最初と伺いました。

若林さん:三坂さんが着任した時点で、作らないか、という話はしたんだけれども、今までは基準車に太めのモールをつけて3ナンバー車にしていたわけですよね。でも先の「歯医者さん」の話が頭にあって、やっぱりボディそのものをサイズアップすると格が違う。だったら、基準車のモデルを真ん中で切って、広げてやれば、サイドのパネルはそのまま使えると考えた。フロアは継ぎ足してつくればいい、くらいに思っていたんです。そこでひとつモデルを作った。



 シーマというクルマのスタートもまた正式な企画承認を得ていない、隠密作戦から始まった。セドリックのデザインをやり直したその勢いを駆るように、「自主的」にデザインに取り掛かったというのが最初ということである。しかし当時はまだシーマのための独自のデザインというより、「幅広セドリック」という感覚だった。



若林さん:本当にセドリックの基準車のクレイモデルを真ん中で切って、50ミリくらい広げたんだと思います。それを三坂さんが当時副社長だった園田さん(園田善三氏)に売り込みに行ったわけなんです。でも園田さんからあまり色よい返事が来なかった。もっとしっかりとしたものを作りなさいと。

前田:それで、じゃあ、シーマのための新しいデザインをやりましょう、というお話になっていった。

若林さん:それでも、なかなか具体的な話にはならなくて、半年位そのままだったんですよ。でも営業部門の方から3ナンバー専用車が欲しいと言って来たわけなんですね。しかも発売をY31セドリック・グロリアと同時にしたいなんていうから、それはさすがに今からは無理だよって事になって。じゃあ半年遅れでどうだ、と。

前田:それは昭和60年10月のことのようです。シーマ発売の約二年前ということになりますね。

若林さん:そんなものをどうやって作るんだ、なんて話になったりしてモメたりもしたんですけれど、それに会社の中ではもう一つ、高級化路線というのがあったわけなんですよね。それがのちのインフィニティQ45なんですけれども、会社としてはどちらかというとそちらが重点でしたね。だから、シーマは間に合わせでしかなくて、営業からは「格好は問いませんから」と。でも半年遅れで売り出したいから3ナンバー専用車を作って欲しい、というオーダーだったわけです。

前田:デザインというのはやはり一年はかかるものなのでしょうか。

若林さん:そうですね、一年は必要です。そこで、当時(デザイン)部長の吉田さんと、「どうしよう、やる?」なんて話になったわけです。デザイン期間は三ヶ月しかない。まあ、色々と勝手にやっていたというのもあるし、これはやるしかないか、と(笑)。ただし、モデルは一台こっきり。



 そんなタイミングでシーマも具体的な計画として経営側の承認も受けた。とはいえ・・・



若林さん:やはり会社としては、本命のインフィニティの研究開発にかなり力を入れていました。

前田:インフィニティのほうには若林さんはまったく関わっていらっしゃらないのですよね。

若林さん:そうです。これは松井くん(松井孝晏氏)という人が担当デザイナーだったはずです。あるいは前澤さん(前澤義雄氏)とか。会社としてはあくまでもインフィニティに重点を置いていましたよね、やはり。だからシーマはモデラーも本当に少なくて、インフィニティのほうにみんな行っちゃっていたから。もう自分たちで粘土盛って削って、と。



 インフィニティQ45というクルマも高級乗用車としてはチャレンジングなクルマではあったが、同時に多くの人員を割くなどして計画的、組織的な、どちらかというと従来的感覚で作られ、シーマは少数精鋭による直観的かつ自由な感覚をもって開発に当たっていたと考えられる。その結果として顧客が高感度で反応を示したのはシーマの方だった、というのも面白い。少数精鋭で細々とやったシーマのほうを顧客は選んだ、これは今、改めて参考とすべき大きな「ヒント」ではないだろうか。しかしやっている側は大変だった。



前田:当時というのはY31があって、シーマがあって、のちのセフィーロやローレルと、若林さんは4車種を見てらした。佐渡山さん(C33ローレル主管)の言葉によると「彼(若林さん)は死にそうでした」・・・と(笑)

若林さん:そうそうあの頃は4車種全部やっていたからねえ。やり甲斐ありましたよ(笑)。面白かったといえば面白かったし、でもタイトロープだったよねえ。しかも「言うこと聞かないで」仕事しちゃってる部分もけっこうあるから(笑)。シーマの人員が少なくても文句言えないようなところがあったよね。

前田:しかしこうしてお話を伺っていますとね、Y31のデザイン変更然り、この幅広モデル(シーマの初期デザイン)然り、若林さんは日産自動車という会社の中で、かなり『自由』にお仕事をされていたようにお見受けします。

若林さん:そうなんですよ(笑)。かなり『好き勝手』に、言うこと聞かないで仕事してましたね(笑)

前田:それがよかったということなんですよね(笑)

若林さん:いや、結果的にはよかったかもわからないけれど、部長クラスにしてみれば、「舌打ちもん」だったんじゃないかな(笑)。「アイツはまたやってるよ!」ってね(笑)



 若林さんの言葉にもよどみがなく、熱がこもる。この頃はまだY31セドリック・グロリアもデビュー前のことである。「売れた」という成果より以前に、若林さんは強い確信とともに仕事に当たっていらしたことが窺える。それはもしかすると、会社に盾をついて敢行した仕事が、次第に会社の中でも受け入れられるようになり、その時点でひとつの成功を感じ取っていたからではないだろうか。「歯医者さん」とのちょっとした会話がきっかけとなり、顧客が実際に製品を使っている姿からもインスピレートされた(秦野運動公園)。顧客の声に耳を傾け、作り手自身が肌身でニーズを感じ取りながら、絶大なる確信とともにクルマづくりを行なう、このプロセスを日産自動車が取り戻した瞬間でもあった。そのきっかけ、切り込み役となったのはY31型セドリック・グロリア・シーマであり、若林さんを始めとするデザイン、開発陣の精力的な仕事ぶりにあったということがわかる。



前田:Y31が非常に好評で、そのあとにシーマが続いて、もちろんほかのクルマもよくて、という状況が続いていくわけなんですが、かなり会社の雰囲気は変わったのではないですか?

若林さん:そうですね。こちらの言うこと聞いてくれるようになりますからね(笑)

前田:上の方々が(笑)

若林さん:そう(笑)、あいつがダメだっていうならダメなんだな、ってなるから(笑)。

前田:説得力というものがある(笑)

若林さん:誰か僕を支持してくれる人が居たのでしょうが、「ほっといて」くれましたね。



 これは日産自動車という巨大組織の中で自らの直観と信念で仕事を貫いた、一社員の成功談である。そんな若林さんの成功談と、日産自動車の会社としての成功が結びついているというところがまた凄いのであって。



若林さん:ちょうど僕らの世代というのは反体制というか、体制には従わないぞ、みたいな風潮がありましたからね。なんでこんなに必要以上に上司にペコペコしてるの?みたいなね。

前田:よく、会社の中で生き延びてこられましたね(笑)

若林さん:不思議でしょ(笑)。いや、危なかったんだと僕は思うよ(笑)。失敗していたらすぐどこかにトバされてましたよ。でも、迷惑しながらも支えてくれた人達がいた、ということでもありますよね。

前田:いやぁ、奇跡的ですよねえ(笑)

若林さん:うまくいったから良かったようなもんだよね(笑)

前田:正直に申しますと、中学一年の時にY31を見て、「ああ、こういう仕事の仕方(生き方)は羨ましいなあ」と思ったんですよ。

若林さん:僕は組織的な決定というか、「皆で決めました」というものを必ずしも信用していないというのもあるし、好きじゃないっていうのもあるんだけど、まあでも普通は上の人に従っていくものですよね。上の人が方向性を決めてくれるものになにもわざわざ逆らう必要ないんだから。賢い人ってのはそうやって生きるもんだと思いますよ。そのほうが安心だもの。売れなくたって、最終的には社長が決めてるんだから、みたいなね。

前田:僕はきっとあの時Y31のスタイリングに若林さんの生き方を見ていたんだと思いました。その後の人生変わっちゃいましたよ(笑)



 旧態依然とした息苦しい体制に盾つくようにモノづくりに傾倒し、自らの信ずるところに忠実に造形をした結果がY31型セドリック・グロリアやシーマのスタイリングそのものだった。僕は1987年当時、造形の隅々からそんな「生き方」、「息づかい」のようなものを高感度に受信した。学校に行って、何かに従い続け、レールの上を安閑と生きて行くだけが人生じゃない、Y31型セドリック・グロリア、シーマは僕にそう告げていたのだ。その後、僕はそうとうアグレッシヴに生きたと思う。苦労も多かったが、自らハンドルを握って「人生を駆る醍醐味」を味わったと今では思う。そのルーツこそY31のスタイリングであり、それは若林さんの生き方そのものでもあった。



若林さん:人生変わっちゃった?、そりゃ悪いことしたねえ(笑)。



デザインとは、脆い仕事?


若林さん:人間の気持ちというのは難しくてね(デザインの上で)、何かに逆らってやるとおかしくなるし、何かに従ってもまたおかしくなってしまう。素直な気持ちが崩れてしまうと表現力に微妙な影を落とすことになると思うんです。

前田:純粋にイメージしていたものが、やや過剰な表現になってしまったりとか・・・

若林さん:そうです。僕が若い人に教えるときにも言うんですけど、デザインの場合、ユーザーを忘れて「驚かしてやろう」とか「やってやるぞ」というようなデザイナー自身の欲や雑念、というのかな、そういうものがあるといいものはできないよと。素直な気持ちを保つことが大事なんですね。



 会社に対して、いうなれば挑戦的なスタンスで仕事をする中で、こうした感覚を保つことにご苦労は小さくなかったのだろう。その中でああした優れたデザイン感覚を持つクルマが生まれ、成功を果たしていくというプロセスを得たことは素晴らしい。



若林さん:それと、例えば権力のある人の声に影響されすぎてしまうとね、今度は自分の考えに自信がもてなくなる。そうなると、他人の「あれいいね」といった些細な言葉に反応してしまったりもするわけです。人間というのはそれくらい弱いものだし、デザインというのも、「売れる」と確約出来る確実なものがない中ですることになる。自分の信念や熱意だけでデザインしているわけで、それがなにかの拍子に崩されると脆いものなんですよ。数値的な根拠もないから。デザインがあくまで繊細な、人間の感覚である、というのはそういう部分なんですね。



 それが最近ではコンピュータが人間の指先感覚に取って代わるようになった。



前田:例えば最近発売になったノートeパワーですね。EVなのに発電用エンジンが付いていて画期的だなと思ったりしていますが。

若林さん:このクルマはパソコンでデザインしたわりにはまだそんなにヘンチョコリンじゃないですね。

前田:パソコンでやるとやっぱりヘンチョコリンになりますか(笑)?

若林さん:やっぱりパソコンだとどうしてもやりすぎちゃうんですよね。人間の手で描こうとすると、やりすぎないように、どこか抑えながら描いている部分がある。最近のクルマはみんなその意味で過剰なところがあるかもしれませんね。でも今の若い人たちは決してそういうふうには思っていないでしょう?



 思い当たるところがある。僕は作文をパソコンでやるが、なにせパソコンでやると修正がラクということもあって、後先を考えずに書いてしまうようなところがある。しかし手書きの文章の場合、筆を走らせながら、じつは脳みそというもうひとつのコンピュータがフル稼働して、まず「後先」を考え、文脈に思いを遣り、起承転結というものを組み立てて作文することになる。同じ題材で書いても、まったく違ったものになる、ということは感覚的に理解できる。この若林さんの発言はその言語化である。人生のベテランの言葉は重い。



F31型レパードでも・・・


前田:ところで、Y31をおやりになってローレル・セフィーロをおやりになって、その後はどんなお仕事をされたのですか。

若林さん:その後は役職も変わってどちらかというと事務的な、組織的な仕事が増えて行きましたね。それぞれのクルマに担当のデザイナーというのがいて、彼らを面倒見るような立場でもありました。あまり口を出してはいけないから(笑)、各人のやり方を尊重することに留意していましたよ。

前田:そうしますとY32になるともうあまり直接的にはかかわりがなかったということでしょうか。

若林さん:そうですね、このクルマにも別の担当のデザイナーがいましたから。

前田:プロデューサーは園勲夫さんですね。

若林さん:担当デザイナーは長谷川くん(長谷川浩氏)です。僕は直接デザインを描いたりはしないですが、選別などには立ち会うというようなポジションです。

前田:Y31とY32はまったく趣が違うデザインですよね。

若林さん:そう。これは彼(長谷川氏)のキャラクターですね。

前田:Y31のデザインで若林さんは「お喋りな感じにした」とおっしゃっていましたが、園さんのお話では「Y32は過剰な表現を抑えたデザイン」とおっしゃっていて、見事に対照的で面白いなと思いました。もう若林さんの作風じゃないなって(笑)

若林さん:でも、Y32もいい仕上がりでしたね。



 Y31型とY32型ではまったく違ったテイストになっていると感じていたが、やはりY32は若林さんではなかったとわかった。若林さんはガチガチの組織の中で臆することなくスタンドプレーに走るような側面をお持ちでいて、同時に部下の個性を尊重し、彼らにも仕事のしやすい環境を整える、というスタンスで、のちの仕事にも当たられていた。良いデザインが、抑圧を受けずに世に生み出されていく、その道筋をも彼は作っていた。



 ところで・・・



前田:前後しますが、こちら(F31型レパード)も若林さんですよね?

若林さん:そう。これはね、オリジナルがとても良かったんですよ。

前田:二代目ソアラと同じタイミングで出てきて、地味に見えちゃって、損でしたよねえ。



 と、ここでオフレコオーダー発動。しかし要約すると、Y31型セドリック・グロリアのデザイン時と同じ「アブナイ」ことを、彼は、若林さんはF31型レパードでもやったというコト・・・ではあったが、F31型レパードのデザイン段階ではまだそうした行動が社内的にも理解されておらず、数々の「横槍」、「ご意見」を甘んじて受け入れ、デザインを直すコトになった、ということである。F31型レパードがY31型セドリック・グロリアのデザインと同じようなプロセスを辿っていたら、いったいどんなクルマになっていただろう。



若林さん:で、やっぱり売れなかった。いろいろイジくるとダメなんだよね。

前田:そうするとまだレパードの頃は横槍が入りやすい状況だったわけですね。

若林さん:そうですね。でも、僕はこの時期にはまだ、「解っていなかった」と思いますね。



 モノゴトには「機が熟す」とか「満を持する」というような段階を踏む必要がある。やはりY31型セドリック・グロリアの時には秦野運動公園での、あの光景から受けたインスピレートがモノを言っていた。F31型レパードの頃にはまだ「その域」に達していなかった、ということである。しかし若林さんの当時のお仕事ぶりを伺っているとただの会社員、という常識やワクの中に収まらない躍動感を感じる。



前田:お話を伺っていると、やはり一組織人というよりも、ご自分の信ずるところに忠実にお仕事をされていたという印象を受けます。

若林さん:それはそうかもしれないね。周りはどう云おうと、何とかいいものを創りたいと真剣でしたから、自分の利益を考えたらこんなことできないですよね。器用というよりは、生き下手みたいなところがあるよね。随分損していると思うよ(笑)



 カーデザインに人生観あり。とてもダイナミックに生き、そして仕事と向き合い、躍動感あふれる「サラリーマン」生活を送ってこられた、そんな爽やかさだけが残る若林さんのお話しである。



レジェンドか、NSXか・・・


前田:お仕事としてクルマの方に向かうきっかけというのはどういったものだったのでしょうか。同じ世代の方ですと、飛行機を目指していたけれども途中でクルマに宗旨替えという方も多いようですが。

若林さん:あまり、クルマをやりたい、ナニをやりたいというのはなかったと思いますね。ただ、絵は好きだったから。

前田:そうすると日産にお入りになったのはとにかくデザインのお仕事をということで・・・

若林さん:大学(東京芸大)でデザインを専攻するようになって一年くらいの時に、日産、ホンダ、トヨタも来たのかな、で、学校の先生も「どう?クルマやりたい?」みたいなそんな感じだった気がしますね。当時は家電に行く人もけっこういたんですけれどね。うちの学校はそんなに人数もいないから「お前ちょっと受けてみたら?」という感じで。それで、日産の人と面接をしたんですけど、帰るときに、僕はホンダにも面接に行ってみたい、と言ったんです。そうしたら「ウチで決めるから、ホンダはやめてくれ」と(笑)。

前田:そうすると、ちょっと運命が変わっていたら、若林さんはNSXやレジェンドをデザインしていたと(笑)

若林さん:そう、わからないですよね、あの当時のことですから(笑)。ホンダもまた変わった会社でしたから、興味深かったですよね。案外ぴったり合いすぎていたかもわからないですね(笑)

前田:今日お話を伺って、日産の方というと、もっとお堅いイメージだったんですが、若林さんはざっくばらんでフランクな方でいらっしゃるから、むしろホンダの方が、という気がしてしまいますね(笑)

若林さん:そうかもわからんね・・・





 時折遠い目をしながら穏やかな表情で語ってくださった若林さん。あの頃のホンダデザインも意欲的なものが多かったが、若林さんによるNSXやレジェンドのデザインがあったとしたら、それはどんなものになっていただろうと思いを馳せてしまった。





 あっという間に約束の二時間が経過しようとしていた。その間、若林さんはまるで昨日の出来事を語るかのように、みずみずしい記憶とともに饒舌に、よどみなくあの頃のことを話してくださった。


 なにより、僕が強く影響を受けたY31型セドリック・グロリアと、そのデザインが生み出された経緯、また「承認デザインやり直し事件」の真相、加えて、シーマというクルマが産み落とされた背景や社内事情なども具体的にお聞きすることができた。


 デザイン部門というものが、黎明期にはさほど重要視されていなかったが、やがて自動車会社の経営という観点から非常に重要な役割を持つようになり、同時に、デザイナー、あるいはクリエイターとしての仕事はしにくくなっていく。そして、経営とクリエイトが対峙した時に、経営者としての視点とクリエイターとしての視点は必ずしも同一ではなく、どちらが正しいと言い切れない側面もあるだろう。しかしY31型セドリック・グロリアの成功には、この種のクルマとしては異例に走りが良かったという要素も大きいものの、なによりデザイナーである若林さんの「直観」が冴え渡り、それをそのまま生かすことの出来た奇跡的な経営環境も大きく作用した。


 若林さんは、お会いすれば決して非常識な方ではないが、しかし思考回路の中には、世間や会社で当たり前とされ、誰もが盲目的に信じて従う「常識」に懐疑的なところがあり、そうしたところは実際に言葉の端々からも察せられるところだった。モノゴトを違った角度から捉える、というのはとても大変なことだ。なにせそれは時に「反乱」と捉えられかねない。それを日産自動車という大規模な企業、組織の一員として、仕事に反映させながら社内を渡り歩き、生き抜いてこられたことへの尊ぶべきところは、少なくとも僕にはよく理解できる。しかしそんな生き方こそが、人間の五感、第六感を刺激し続け、直観力というものを身につけていく良き訓練にもなるものだ。


 あの頃の日産車には、とにかく記憶に残るクルマが多い。キャラクターが明快で走りがよく、スタイリッシュだった、というような個々の要素は分析できる。しかし、そうした魅力の根源には、「理屈では生み出せない良さ」のようなものがあるように思えてならない。文中、「横槍が入る」といった「組織性」の強さを示す様子が、開発の途中にしばしば見られるという発言が出てくるが、当時の日産はその点について反省し「横槍」「ご意見」「理屈」のたぐいを極力排除していた。その考え方の始まりがY31型セドリック・グロリアだったのである。言い換えれば、「直観」を活かし、他人の手垢や理屈に染まらせない「ピュア」な魅力に溢れていた、ということもできるだろう。


 今は、クルマが売れないし、昔ほどクルマ好きは少なくなってしまった。そんななかでなんとか利益を大きくし、経営を保全することが、現代のクルマ創りの根源的なテーマになっている。出てくるクルマはどれもソツなく、粒が揃ったお利口さん、それはたしかに「良質な製品」なのかもしれない。しかしそこに欠けているものがあるとしたら、「理屈抜き」にユーザーの欲するものを言い当てる「直観力」ではないだろうか。


 Y31に揺さぶられ、感銘を受けたのは僕だけではないはずだ。だとするなら、Y31のようなクルマ創りに、停滞した現代の自動車創りが学ぶべき、参考とすべきヒントがたくさん隠されているように思えてならない・・・



 その思いは、若林さんとお会いして、確信に変わった。









2016.12.9
前田恵祐

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