「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

Monthly Talk/01 Jan 2015




 親や大人の言うことに素直に従うことが「良い子」のわかりやすい定義だとすると、大人になると必ずしもそうではなくて、「鵜呑みにしない」ことが正しい社会人の定義になる。僕の家は決して裕福ではなかったが、社会的に「立派な人」と定義された親族の元に育ったから、ことさら絵に書いたような「良い子」であることを求められていた気がするし、僕もそうすることが正しい生き方だとも思い続けてきた。


 大人になると様々な価値観や偏った考え方などに揉まれて、一筋縄に行かない難しさは、それは早くに社会に出た僕だから早々に感じ取ってはいた。何が正しくて、何が道理なのか。しかしその判断を下せるようになるためには、相応にイタい目にも合わなければ、しくじって遠回りする羽目に遭うこともなければ、物を見る眼や感覚、嗅覚のようなものは養えない。


 「良い子」は、とにかく疑わないから、自分の生き方を疑うということすらできない。「検証」ができない。「検証」というのは即ち否定にはならない。けれど「良い子」は真面目だから検証を通り越して「否定」に突き抜けてしまう。そして自分を責める。冷静でいられない。


 ことさら独善的になる必要はないけれど、今までに遭ってきたイタい目や人生の遠回りを経験則に置き換えて物事をジャッジしていく。「肯定」でも「否定」でもない「ジャッジ」。取捨選択、と言い換えてもいいだろうか。


 今の世の中、これだけ価値観の多様性が認められながら、その実人間の、個人の価値観、というか視野はどんどん狭まっているように思えてならない。いや、価値観がどんどん多様に広がって行っていることに対して、それを個々人が受容する受け皿がないというか。社会と人間にはそういう乖離が常々あるものだし、そこに人々は気を揉んで苦労し続けるというわけだ。そいつはいつの世も変わらないということなのだろう。


 そういう意味では、僕型の「良い子」人種はきわめて旧型の人種だ。今の子達は本当に頭が柔軟でそれこそスポンジのようにあらゆる経験を知性に置き換えることができる。従来の自分に依存していないところも素晴らしい。従来の「良い子」像にとらわれ、考え方が狭く、自分を疑い変えていく力も弱い自分。


 そうやって、僕の脳内改造はまるでサクラダファミリア大聖堂のように、延々と続いてゆくのである。









前田恵祐



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