「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Nov 2015




 この会社一筋でがんばってきた、という人が居る。あるいは、代わる代わる様々な企業を渡り歩いて実績を挙げてきたという人もいる。この歳(そろそろ41歳)になると周囲にも様々な職歴を持った人との出会いがある。彼らはその様々な職歴の中で何かを得、肥やしにし、あるいは自らの身とし骨とし、核も成す経験をして、そして歴史というものが人の中に生じていくのだということがわかる。


 いかにサラリーマンでも、漫然と成すがままに生きてきた人と、時に戦い、勝ったり敗れたり、学びを得たりしながら職業人としての成長、人間としてのステージを上げてきた人とはやはり異なるものだ。幸いにというか、僕の周囲には「きちんと」やってきた人がたくさんいて、彼らから僕自身が学び得ることがたくさんあるということは、とても幸せなことなのかもしれない。


 僕は何度も言うようで恐縮だが、中卒です。学校教育に違和感を抱いていたのと、その先にある社会人として企業に属するという生き方が果たして自分に合っているのかという疑問や葛藤を14歳の時から抱えている。そうは言っても15の時にはすでに社会人デビューを果たせていて、これまで約27年の職歴を得ることにもなった。いろんな人に助けられ、導かれ、それには感謝を惜しまないし、だけど最後の答えは自分で見つけながらやっても来たから、生きる手応えはそれはとてもある職業人生だったと思う、ま、職業半生か。


 いわゆる枠に嵌ったサラリーマンをやろうとも、僕のように、生まれながらのベンチャー気質であろうと、少なくとも真面目に、せめて真正面から仕事や人生に向き合い、取り組んできた人間というのは、例えば二十数年間そうやって生きてくると、何らかの「モノ」にはなっていくのだということを最近感じている。


 それはどっちが正しかったとか偉かったか、とかいう類のものではなく、別の職業人生を歩んできた者同士が出会った時に、そこで互いの来た道を賞賛し会えるような、そんな境地のようなものがあるように思う。そしてそれは、じつは出会った瞬間にほぼ100%見通せるもののような気がする。そういう眼力を職業人生の中で養ってこれたという、自己研鑽の賜物でもあるとおもうし、その自己研鑽の賜物を互いの喜びあえる、そんな関係があるような気がする。


 だれとでもそうなれるわけではない。やはり何十年と働いてもその境地に到れるような学びを得ることのできない、あるいは気づきを得ることのできない人は大勢いるし、苦しみながら人生を70年やら80年やらの終了する人だって少なくはない。むしろ、学びや気づきを得られないから「生かされている」というような気がしてならない。「いい人ほど早死」というのは、人生を、ある意味「修了」したからこそ、そこで終われる、しかもおそらく本人としても決して悔いの残る人生ではないカタチで終えられているんじゃないだろうか。


 僕が長生きを必ずしも祝福しない理由はそこにある。長生きは、じつは苦しい。苦しい中から見出して学び得よ、という、雲の上の運転指令からの指示なのだと思う。かほどに人間の生死や命運というのは、人間自らのコントロールの及ぶところではない。


 しかしそう思えばこそ、「生かされている」あいだに学び得られることを一生懸命に探す旅をするべきではないかと思う。自分で決めて、自分で答えを探して。そういう生き方は与えた課題を従前にこなせていればそれで良しとする、それ以上進展しようのない学校では教えてくれない。ま、学校を出た人でもそういう生き方をしている人はたくさんいて、偉いなあとは思う。よくぞ思考停止しなかった。


 僕の最近の人との出会いや人間関係からは、こうした気づきが得られるような刺激性がある。この歳になって初めての体験だし、また、自分もその境地に足を踏み入れつつあるということなんだなということにも思いが至る。でも、たぶん「修了」というフェーズにはまだ至っていないと思うから、これからも「苦行」は続いていくんだろうと思うけどね。



2015.9.20
前田恵祐

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