「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Jan 2016



 僕は自信のある人が苦手です。それは僕が「自信が持てない」ということに「自信をもっている」タイプの人間だからでしょう。自信を持つことはいいことだ、と思われているし、大なり小なり成功して自分の人生や価値観、生き方に自信を持てるということは幸せ、なのかも知れないけれど、それはちがうと僕は思っているタイプです。僕はずっと自信が持てなくてもいい。持ちたくないのです。


 自分に対して「これでいい」となってしまうと、そこで何かが終わってしまう気がする。ホッと安心してそれ以上何かをしなくなるかもしれない、と思う。いや、もしかするとそれ以上の自信やあるいは地位やレベルの高さを追い求めることに躍起になってしまうかもしれない。でもそれはとても下品なことです。そしてそれは自分の何かを覆い隠すための行為のように見えてしまうこともある。自信がない自分へのコンプレックスなんじゃないかと。


 僕の場合、自信がないということを自分で受け入れる、その状態を維持することで、あることが担保できると思っているんですね。それは、考察を十全におこなえるひとつの根拠なっているということなんです。自信がないから確かめる、調べる、ということをして、初めて「真実」のようなものに近づけるという風にも思っている。自分の考えだけで簡単に結論付けてしまえる「自信」のようなものを僕が嫌う理由です。


 人間というのはいつからか「考えを深める」ということを「放棄」することばかりを追い求めるようになっている、そんな気がしています。それは、あらゆるものが人間を助け、機械やコンピュータによってより簡単に「生きていく」という営みを全うできてしまえるようになった、そこにあると思っています。今、人工知能なるものまで現れ、よりいっそう人間は「考える」ということを手放そうという方向に突き進んでいる。


 何遍も書いていますが、学校という大量生産装置がこうものさばるようになって、そこで行なわれる人間教育の手法もシステム化、マニュアル化され、教える側も、教わる側もオートメーションのように日々教育を与え、受けるというようになってしまった。この段階から人間は既に、「考える」ということをしない方向の行き方を身に着けてしまっていることになる。もう少し細かく説明すると、学校は学校のカリキュラムだけを全うしていて、その成績の数値がよければそれで満足、という場所。それ以上の教育は事実上なされていませんよね。少なくとも私の知る限りは。


 その意味で言えば、実は自信が持てずに生きていて、なんとか自信が持てるように躍起になっているコンプレックス起因の自信家というのはまだマシなのかもしれない。自分に何かが不足していると思っていてそれを補おうという行為だから、それに気がつけているだけでもまだマシと捕らえることは、考えることはできる。でもその先に自信という充足や安堵があるとすればそれは方向が違う。自己満足にしかなっていない。だから、僕は自信は持たずに、ずっと考え続けるし、自分の結論さえ、もしかすると間違っている、違った捕らえ方もあるかもしれないと常に考え続けている。自分が見つけた結論にさえ安心などしない。


 僕はこの26年の職業人生に「自信」めいたものを見つけることができたのもつい最近のことです。それは人様に対して見せびらかすことではないし、自分の中の引き出しにそっとしまって置ければいい、その程度に思っている。僕のこれからの人生の探求や考察はまだまだ続きます。それを続けることが僕の人生観というものなのだろうと思う。その中には過剰に安堵や安心を得ていく必要はあまりないと思っているし、むしろ、考え続けられること、それをやめないということに自己信頼を置いているようなところがあるから。





2015.12.2
前田恵祐

拍手[10回]