「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Aug 2016



 思い出すと、子供の頃というのは随分と「窮屈」な日々だったような気がする。子供だから当然自分で出来ることは制限され、ボキャブラリも少ないから言いたいことや表現したいことも自由じゃなかった。意思疎通の方法もまだまだ知らなかったから、コミュニケーションもうまくいかないことがとても多くて、とにかく、そんなコミュニケーション不全な状態に僕は至って不服で、憤懣を溜め込むような日々を送っていたような気がする。


 18歳で運転免許を取得すると羽が生えたかのような自由を我が手に入れたような感覚を得た。自分の裁量で自動車の運行という責任ある業務を執り行うことができる、それ故に背筋の伸びるような気持ちも同居した。大人になるということは、もちろん責任も負わされることにはなるが、その代わりに子供よりずっと自由な時間を得ることになるのだなあと、ハンドルを握りながら実感したのを覚えている。


 早く大人になりたいと思っていた。この窮屈さから抜け出したいと思い続けていた。責任の代わりに得られる自由、成熟した知能やボキャブラリによるより豊かでストレスのないコミュニケーション、互いを尊重しあえる人間関係・・・大人の時間への憧れをずっと抱いていたような気がする。もちろん、大人になってからも人間として成長しなければならず、そのための成長痛のようなものを感じるときもそれはあった。しかしそれは人間であるが故の「証」のようなものだと自らに言い聞かせた。


 そう、僕はあの頃よりずっと「自由」だ。あの頃よりずっとページ数の多いボキャブラリでこのように意思を表現し、コミュニケーションもし、理解を得る。子供の頃が懐かしい、あの頃が良かった、という大人は多いが、僕の場合はそうではない。子供の頃の良き思い出はもちろんたくさんあるが、しかし「あの頃」よりはるかに「今」の方が充実しているような気がしている。「今」は「今」でまた別次元の不満はたくさんあるにはあるが。


 考えてみれば僕は大人になって二十余年、コミュニケーションや人間関係を磨くために時間を使ってきたような気がする。それが子供の頃からずっと手に入れたかったモノだったからでもあるだろう。四十になって嫁もいない、家の一軒も立たない、ウダツの上がらない中年ではあるが、もしかすると僕がこれまで築きあげてきた「胸を張れるモノ」とはこれだったかもしれないと思う。


 世の中を見回すと、自分よりずっとコミュニケーションというか、受発信で苦労している人はたくさんいるように見える。人と人との「通信」においてその受信機(古いなw)「チューナー」のダイアルを即座に合わせられないという人は、世の中にはたくさんいる。と思う。それは、そのことに気が付けなくてダイアル調整のワザを磨けなかった人もいるだろうし、もっともっと先天的な理由でその領域に踏み込めないという人も、それはいるだろう。だからコミュニケーションがヘタクソだからといって、僕はそれを責めるつもりは一切ない。


 僕にも怒るときやキレるときもある。それだってコミュニケーションの一部だと思う。自分自身の責任ある自由な裁量の中で判断した上で怒り、そしてキレる。ムラムラして抑えきれなくて爆発する、ということはあまりない。それくらい自分自身をコントロール出来ていると思うし、また、コントローラブルだとも思っている。だからといって竹中直人のように、笑顔で怒る、というような芸当ができるわけではない。


 アマチュア無線が好きだという人の気持ちがわからないではない。周波数を合わせて見知らぬ誰かとコミュニケーションする、僕はやったことがないけれど、あれはあれで高尚な世界感があるのだと思う。僕はそれを生身の人間同士のコミュニケーションに置き換える。空気を読むという表現があるが、それは自らの頭の中の「ダイアル」をその場の電波に合わせる作業のことを言うのだと思う。そのダイアルを調整する作業がまた楽しいし、その都度、調整の腕前を鍛えられるからやりがいだってある。


 なんでもかんでも機械やコンピュータが「代行」してくれてしまう今の世の中にあって、人間の頭脳が力を発揮できる場面といったら、それくらいしかない、だからこればかりは手放したくはない。人間が人間でいられる瞬間だと思うのだが、いかがだろうか。





2016.6.16
前田恵祐

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