「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Nov 2016



 今までの人生を振り返ってみると、「したい」、「やりたい」と思うことはあまり自由に実現させてもらえなかったような気がする。人間誰しも「希望」をもって生きることが大事だと教えられたし、そうして自己実現を繰り返しながら生きる甲斐のようなものを携えてゆく、それが人生だと思い込んでいる面もあったが、じつはそうじゃないのではないかという気がしている。


 誤解を恐れずに言えば、人生には「すべきこと」というものがあるという気がする。自分の人生に与えられたテーマというか、課題のようなものが存在して、それは、さきの「やりたいこと」と同じではないことの方が多いのじゃないかと。


 でもじつは、人間がこの世俗において生きていくということは、様々な欲望や希望や、あるいは煩悩のようなものにも苛まれつつ、「すべきこと」になかなか気が付くことができず「たどりつけない」ものでもあるように思う。自分は何のために生きているのか。何に向かうべきなのか。しかしそれは自分の欲望、希望、煩悩のたぐいを切り捨てた時に、じつはハッキリ見えてくるのではないかという気がしてならない。


 僕は幼少の頃から、「自分は人生で何を成し遂げるのかわからない」という人間だった。目標も希望も、あまり具体的に持っていない、あるいは持てないタイプの人間だったと思う。もしかするとそれは、生まれた時からモノに囲まれ、自分自身で何かを切り拓き何かを生み出していく必要のない生活環境や社会構造だったから、というのもあるかもしれない。しかしそうした中で、大人から「目標を持て」「希望を持て」と念じ唱え続けられることが苦痛以外の何者でもなかったのである。


 しかしそれはどうやら僕一人の問題でもなかったようだ。


 僕は昭和49年うまれだが、僕にとっての「大人」は、皆目標や希望で自分を奮い立たせ、日本という国を立派で豊かな国に作り上げてきた世代でもあった。そしてもしかすると、彼らの心の中には、そうして成長した我が日本に、どこか充足や満足を抱いている面があったのではないだろうか。だからこそ、その次を担う(僕を含めた)世代が、従来の「奮起法」ではなかなか奮起できない、目標も希望も見いだせないという状況に陥ったのではないか、そんな気もする。


 「昭和」を作り上げてきた多くの人達にとっての、自らの「目標」「希望」と、人生において「すべきこと」が一致していたことは幸せなことだったと思う。少なくともそう見える。その後の日本はあらゆる面で充足してしまい、また、それゆえに多様化も複雑化もし、一丸となって目に見える何かに向かっていくという「タイプ」の世の中では完全になくなってしまった。そして、人間に課せられた「テーマ」「すべきこと」も、より高度化して、目に見えない何かを、目に見えない人間の中の領域で実現していくこと(俗にそれを精神世界という)に移行しているようにも思える。簡単に言うと、「すべきこと」は見えにくく、掴みづらいものになってしまった。


 その、見えにくく、掴みづらいモノを、なんとか視認し、掴み取っていこうとする行為こそが、現代人の頑張りどころであり、諦めてはならない部分なのではないだろうか。少なくとも僕はそう思いながら、言い聞かせながらここまでやってきたような気がする。だから、僕は「成果」「成功」のたぐいとして、現世的にナニかを残せているわけではまったくない。あるとしたらこのブログくらいのものだ。


 何を以て個人的な人生の充足とするのかは人それぞれだが、しかし僕の場合、カタチになる何かを残せていない現状においても大きな不満はない。むしろ、雲をも掴むような人生観や価値観の構築に、わりとわがままに時間を充てることができたということにじつはけっこう充足感をみいだしていたりもする。「人生っていったい何なんだ」に背くことなく、諦めることなく、向き合い、対峙してきた充足、とでも言い換えようか。


 もっというなら、自分で言うのもナンだが、僕のウマかったところは「姿カタチのない何かにこそ意味がある」ということに、早々に気が付けたということかもしれない。むしろ、姿カタチのない何かこそが、じつは人間という生き物を支配しているのではないか。現世的に人間がこしらえた尺度や物的価値観のようなものに振り回されることがいかに虚しいことであるか・・・



 ま、今日はこのへんにしておきましょうか(笑)。





2016.10.22
前田恵祐

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