「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Jan 2017



 今の若い子はみんな可愛そうだと思う。それは、誰あろう僕ら世代が彼らに何一つ良いモノ、良い知恵、良い情報、良い生き方、というものを「見せる」ということができていない。だから彼らは何を手本に、どのように前向きに人生を歩んでいけばいいのか、それは困っていると思う。


 こういうコトというのは、なにも僕ら世代だけの問題ではなくて、僕ら世代もその前の世代から継承するものだし、「見て」「会得」するものだから、もっといえば、僕らのもっと前の世代もかなりダメだったからきっと僕らも僕らより若い世代に良いモノを贈ることができずにいたんだろうと思う。


 僕にとって救いだったのは、僕の子供の頃の家庭が核家族ではなく、老人がいて、その老人が現役で活躍し、彼らの生き様と思考と、それとそれまでに生きてきたナレッジというものを彼らの背後に感じながら育つことができたことだろうと思う。世の中ではそれを、おじいちゃん子、おばあちゃん子というかもしれないが、それは決してそれだけにはとどまらない、老人から可愛がられるだけにとどまらない大きなモノを、しかも彼らの意図とは離れたところで自然継承するという大きなメリットがあったということになる。


 だからといって、今の老人と、子供が一緒に暮らしたところで、まあ得られるものはないだろうな。だって今の老人、ホント、駄目だから(笑)。スカスカで何も詰まってない。


 しかしナニが言いたいのかというと、やはりこの世の中をよりよくし、個々人の人生をより豊かに有意義に思いながら前向きに生きていく方法は、何かないものか、とは思っているわけです。とくに若い人にはそういう生き方を会得してもらいたい。なんせ「背負って立つ」わけだからね。


 ちゃんと生きた世代の老人から継承できなかったモノの一つに、「深く考える」ということがある。彼らはなんせ情報化社会、ではない社会で、しかも高度成長という荒波のような時代に、今のように高度に情報化されていない情報戦争の中を生き抜いてきた。それはやはり、戦中戦後の荒波をしたたかに生きてきた証しでもあるんじゃないかと思う。あの生きるか死ぬかの時代に、高度情報化されていない世の中を渡り歩く、生き抜くというのは、やはり高度な「思考」がモノを言っただろうし、その思考がもたらす「考察眼」やそれらに磨かれ育まれた「直観」というようなものが大いに働いていたに違いないのだ。彼らの直観は、とても磨かれていたものだったように思う。


 端的に言うと、僕ら世代とか、あるいは団塊世代とか、そのあたりというのは、そういう「直観」というものが、無い。直観がなくても「情報」は勝手にむこうからやってきて、もたらされ、あれよというまに自分の中に吸収されてしまうという、自動情報取得社会に生きているから。モノゴトの正しさや本質を検証する手段もなく、それゆえ、危ないのか危なくないのか、正しいのか正しくないのか、という「考察」も持たないまま、なんの疑いもなく生きているのが我々だと思ってもらいたい、若い人含めて。


 これのナニがデメリットであるかというと、まず「考えなくなった」ということ。頭を使っていないで生きている。生きられる。ということはどういうことかというと、十全に人間の能力を行使して日常生活を生きるということができずにいるから、簡単に言うと、不完全燃焼なんだよね。日々をまっとうしているという、達成感に非常に乏しい。頭の運動不足とでもいうか。


 例えば、昔、まだ情報というものがこんなに氾濫していなくて、人間一人ひとりがちゃんと頭や直感や考察眼を用いて考えながら、確かめながら生きなければならなかった時代には、そのコト自体に時間が大きく割かれていたと思う、一日の中で。だから余計なことを考える暇というものがない。ゲームやスマホで時間を「潰す」などという無駄なことをする必要がない。もっというと、魔が差す暇がないから、悪巧みも少なければスケベなことを「ずっと」考えているような「余裕」もそんなになくて、きっと昔のセックスは現代人のセックスよりずっと崇高で充実した時間だったのではないかと想像する。聞くに聞けないけど。愛すべきものをちゃんと愛す、みたいな。選択と集中のセックス、だな(笑)。


 だけど、そういうのも、やっぱり頭脳的な達成感のすごくベーシックなところだと思うよね。


 だから、まず、ちゃんと自分の頭を使う、というところから始めてもらいたい。スマホや何かで情報を簡単に得る、得られる、というのはいいとして、それをちゃんと精査して、考察して、検証するのにちょっと時間をかける、みたいなところから始めたらいいんじゃないだろうか、若い皆さん。情報というのはただただ氾濫している中に溺れるようにして生きるのではなく、取捨選択ができて、そして自分の血となり肉となる情報だけを身につけていく、というのも力強く人生を歩む上でのノウハウなんだよね。情報化社会の現代人なりの、人間本来の頭脳と叡智を生かした生き方、というべきだろうか。


 そうした生き方からは、かならずや「充実感」や「達成感」のようなものが芽生えてくると思うし、「自分」というものを「フルに活かして」生きているという躍動感のようなものも芽生えてくるんじゃないかと思う。実際に汗をかく必要はないけれど、いい汗かきながら生きているような錯覚は持てると思う。いい錯覚だと思わないか。


 しかしここで大事なのは、自分らしさや自分なりの考えを会得したと感じた時に、同時に、自信を持ってはならないということ。自信というのは適時芽生えてしまうもので、その都度摘み取る必要がある。自信には自分でその自信の根拠を考察し、検証するという謙虚さも同じかそれ以上のボリュームで必要だと思ってもらいたい。





 世の中大変だ大変だ、と口で言うのは簡単である。みんな大変だし、頑張っているし、もがいているんだと思う。しかし、明らかに、そんな我々、彼らに足りないのは、もがいて苦しんで生きる人生をより充実させ豊かなものにさせる「人生訓」に出会えないということだと思う。


 古いものを継承するというのは、何も骨董品やクラシックカーだけではない。むろんそれらでもいいが、それらのなかにどんな考えやヒントが存在しているのか、というような見方ができなければ単なる見世物にしかならないだろう。これもやはり、考察と検証という観点が非常に重要になってくるということだ。モノではなく、もっと目に見えない何かにヒントが隠されている、それを見抜く直観を鍛えなさい、というお話である。


 たぶん、そういう生き方をすれば、それなりに人生楽しいと思うよね。なによりずっと考えているから退屈じゃない。しかもネガティブな情報に溺れて何かに怯えるような考えが続くのではなくて、原則として、どんなふうに考えれば、捉えれば、見れば、有意義に、豊かな「心」とともに生きていけるのか、というベースラインの上でのことだから、きっとツラくはならないと思う。なぜなら、答えを見つけることに楽しさが生まれるから。そういう生き方を、「研鑽」を積む、というのです。 


 そして、そうした生き方を、本来は老人が身を持って示して、継承させなければならなかった。これが断絶してしまったのはなぜなのだろう。年齢という数値を大きくしているにもかかわらず、その現代的「数値」「スペック」の価値観においても「敬われなく」なってしまった老人。本来なら彼らは敬われる「人格」や「人徳」で人生の充足とともに晩年を生き、安らかに終わっていくものだ。やはりこんな部分からも、「数値」や「スペック」が何の意味もなさない、モノゴトの意味を軽量化してしまっているというふうに思えてならない。


 だからこの文章の冒頭で、僕は「若者が可愛そうだ」と書いたが、じつはかわいそうなのは老人もかわいそうなのだ。尊ばれ敬われない中で自分の人生の値打ちと戦いながら、削られゆく年金の中で高齢に至るまで働き続けることで自らの生きる価値をなんとか見出しているようにしか、僕には見えない。そしてその結末が、高齢者による事故であり、その巻き添えになるのは誰あろう、これからの将来を担う若者、子供だったりすると、もうやりきれないじゃないか。


 仮に今の老人が昔の老人と比べて「研鑽」の少ない生き方をしてきたのだとしても、自分の人生の意味とは何だったのか、何を残し伝えるべきなのか、という検証や向き合いのようなものはできるはずだ。


 時代や文明に応じて、人間は変化するだろう。しかし、本来、人間の真ん中に据えておかなければならない大事なコトというのはいつの世も変わらない気がする。それは「考え続けること」であり、「磨き続けること」に尽きるのではないだろうか。しかも独力で。機械やツールや道具やスマホは自分を磨いてくれることは断じてない。便利なそれらが垂れ流す情報を厳しく選択し、血肉として身につけていく考察眼を持たなければならない。その意味で、デジタルなものは所有しても、自分自身はアナログに生きる、あるいはデジタルの地位はもっと低く設定して生きる、というのは大事なことなんじゃないだろうか。





2016.12.1
前田恵祐

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