「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 Feb 2017



 怒られて学び育つ、という感覚と、パワハラを受けて会社を辞める、自殺をする、という感覚が、どこかどのようにすり替わってしまったのか、オカシなことになってきている。くだんの電通社員の自殺事件にも、長時間残業の他に、上司のパワハラがあったと言われている。パワハラと叱咤激励は違う。受ける側はパワハラとして受信することのほうが圧倒的に多く、与える側は圧倒的に叱咤激励のつもりで発信する、そんな感じじゃないだろうか。かくいう筆者も若者を叱ることは多い。


 若いうちは叱られたほうがいい。甘く優しい言葉で教えてもらうだけではダメだと思う。個人的に、大人として、社会人として、あるいはプロフェッショナルとしての厳しい認識を植え付けるには時に強い言葉で叱られたほうが、叱られた側は早期に目を覚ます。叱る側も、いちいち体力気力を使って強い語気語調を発するからけっして楽ではない。でも敢えてそのほうが本人の為になる、筆者はそう信じているタイプだし、そのようにして育ってきた。


 若いうちは目上の人間に対してビクビクしていたほうがいいのだ。そうやって感受性というものを養う。なにをすると怒られるのか、に対してのアンテナをしっかりと機能させることと、そうして受信した事柄をナレッジして、そこからさらに仕事や人生への「術」というものを読み解く、それが自分を育てるという行為だ。イマドキよく用いられる「空気を読む」などという生易しいモノでは断じてない。大人になる、独り立ちする、あるいは自らを律する、とはそういうことなのだ。


 けっして育つ、育てられる、育てる、というのは、オートマチックではない。互いに脳内で手動的に思考を回転させ、やりくりさせて深く物事の真意を理解していくという、これは大人の入口における初歩的な訓練なのだ。


 しかし。


 そうした基本目的や概念を持たずに若者に接している大人が多いし、そのことを高感度に受信する若者が多くて、つまりそれがパワハラ構造になっているように思える。


 つまりダメな大人が多い、ということだ。叱咤激励や教育的指導と、ただただ感情任せに汚い言葉を浴びせかけ「罵る」こととの区別が付いていないことが多いような気がする。それは育てられた子育ての段階からしてそうではないだろうか。子育てというものが幸せいっぱいで楽しいことばかり、かのように刷り込まれてきた世代だから、ちょっと子供が意にそぐわない行動に出ると「罵る」。ここからして「背骨のズレ」のようなものが始まっているような気がしてならない。子育てなんてそら汚いし面倒だし「子供は天使」みたいに、広告や教育で刷り込まれた親は感情的になって、もうやってらんないと思えるようなことばかりだろう。そういう子育てをする親に育てられた大人が、今ゴチャ万といる。


 さて、そんな感情任せな「罵倒」「罵声」の子育てを受けた、上司世代が部下を持てば、感情任せな「罵倒」「罵声」の育成方法になっていくのは自然なことかもしれない。そこへ、他人から怒られるということへのナレッジがない若者は、流行りのフレーズを用いて「パワハラ」を言い立てる、いってみればそれだけのことだが、そんなたった一つの「背骨のズレ」のようなものがこのようなオオゴトになっている。しかし世の中の不条理の構造なんてそんなものだ。


 筆者の親世代などを見ていると、やはり思うのは戦後物量時代の訪れとともに、精神や思考を磨きそれを履行するということをやめ、目に見える「モノ」や「コト」、あるいは「数値」を頼りに生きているということがわかる。その前の祖父母の世代はそうではなかった、と思う根拠は単なる印象だけのはなしではなくて、目に見える範囲だけの「モノ」「コト」でしか判断できなくなっている世の中を危惧し、歯止めをかけなければならない、という内容の祖父の生前の書き残しが最近になって見つかった、というのもある。もっと目に見えないものをしかと見抜こうとし、「心」だとか、「生きる目的」、目の前の現象に秘められた「意味」の存在を疎かに、彼はしていないという証左だった。


 その、目に見えない人間の真実や意味や心といったものへの関心が、物質物量時代とともになくなっていったことが、例えば団塊世代による劣悪な子育てに始まり、それが今の現役世代による自分の子や若手を育成していく上での心理軸にも影響を及ぼし、今の若者に大きく影を落としているのだと思う。我々世代(団塊Jr)はただただ感情的に罵る「育成法」しか知らず、それを受信する若手はただただ不信感しか抱けない。現代における人間不信の源の一つだろう。


 この「背骨のズレ」。何のために叱るのか、何のために育てるのか、今の大人は、あるいはその前の世代からしてそこに関心がない。


 筆者は、その意味で、「良い叱られ方」をしてきたのだと思う。社会に出てからのことだが、もっと言うと、良い叱られ方とともに、悪い叱られ方もされたし、見てもきた。だからモノゴトの善し悪しというものを判別できる。パワハラとそうでないモノとの区別ができる。それはとても幸せなことだったと思う。





2017.1.19
前田恵祐

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