「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。

Monthly Talk/01 May 2017



 先日川崎市内で、70歳代の人が自殺目的と思われる動機で踏切に立ち入り、それをたまたま目撃し居合わせた50歳代の人が救い出そうとして巻き添えに遭い二人共死亡するという事件があった。以前にも似たようなことがあったと記憶している。


 乗り物に飛び込んで死ぬというのは、一言で言うと「後片付け」が非常に厄介だ。物理的にも事務的にも法律的にも、さらに言うなら、精神的にも。誰ひとりとして幸せにならない、ということくらい、想像できるなら踏切飛び込みなんか誰もやらないわけで、想像できないから、やるわけである。


 つまり、それくらい追い込まれているということがわかるよね。病んじゃっている、というべきか。


 だから、そういう自殺者をどうにか引き戻そうにも、これ、常人には考えられないくらい決心固いから、そうそう簡単には戻ってきてくれない、ってことを、まあ過去の事例が示している。僕はそういう認識でいます。だから、間違っても助けに入ったりはしない。それやって僕が死んだら、いろんなところに負荷かけて、迷惑かけて、悲しみを与えてそれで終わりだからね。そういう死に方しちゃいかんよ。


 踏切飛び込みを本当に救いたいなら、「緊急停止ボタン」を押すこと、これしかない。


 冷静に考えればわかることなんです。で、どうやらこれ、今回の川崎の事件で、誰も押していなかった。踏切に自殺者が立ち入ってからそれなりに時間があったと聞いているけれど、誰もやってない。助けに入った本人も含め。


 これ、どういう思考停止なんだろうかね。


 踏切で死のうとしている人は、基本、助けられないさ。説得する時間もなければ、それに耳を貸す余地は、彼、彼らにはもうないわけだから。押し問答やって、で、ドーンとやられておしまいですよ。死のうかどうか迷っているんじゃなく、死のうとしているのだから、そら決心固いさ。対話でなんとかなるなんて思うだけ傲慢というものですよ。そんな時間はない。そしてその短く残された時間の後に訪れる様々な負担や悲しみや怒りのことを考えるべきなんです。


 と、ここまで書いておいて。


 でもね、思うのは、二人とも、こういう定めのもとに生まれてきたんだろうな、ということなんですね。人間は生まれてくる前に自分に人生をプログラムして生まれてくるとどこかで読んだ。それ、あまり合理的な解釈ではないかもしれないけど、でも、世の中の不条理とか、人生における苦難、苦闘を思うとね、そういう修行や苦行から学びを得るための時間なんだと理解できる。


 もっというと、彼らは自らの人生だけじゃなくてね、僕らにも、こういうことを考えたり向き合わせたり、語り合わせる時間を作ってくれているわけです。人はなぜ生まれてきて、そして死ぬのか、あるいは死のうとするのか。全ては学び、全ては必然、なのだとしたら、こうした悲しい事件事故に接するのもまた僕らにとっての修行なんですね。彼らはそのための教材に自らなってくれたとも言える。あるいは、そう考えることが、ふたりの命への報いなんじゃないかと。


 人の死に接すると、自分はこれまでどのように生き、あるいはこれから先をどのように生きようとしているのかを考えさせられます。悲しみや弔いの気持ちとともに、この、時に難渋する課題と向き合い、考え続けるということが、もしかすると「生きる」という行為そのものなのかもしれない。


 生まれるに際して何らかの課題を自らに課して生まれてきたのだと認識すればなおのこと、考えることをやめてはならない、そう思うのですが、いかがでしょう。




2017.4.25
前田恵祐

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