「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

武装勢力による人質殺害について



 2015年1月から2月にかけて、武装勢力に身柄を拘束されていた二人の日本人が処刑された。実際に彼らが拘束されたのは昨年からのことで、水面下で交渉が行われ目に見えず事態は推移していたようだ。こういう時でもヒステリックにならず、いたって冷静な対応を見せるのが日本人の特徴であり、それは僕も同じだった。日本はアメリカに与している以上、ああいう場所に足を踏み入れるというのは即ち命の保証はない。まさしく自己責任だと僕も思っている。


 いかなる恨みをもって欧米に銃口を向け続けているのかの詳しいところは知らないが、その恨みを盾に何らかの利益を引き出そうとする姿勢というか、精神構造は、誤解を恐れずに言うなら理解できないでもない。負け犬にはその方法しかないのだ。2月のマンスリーにも書いたけれど、僕は根っからの負け犬だから、例えば、企業という巨大権力に対して敵対的に仕事を人質にして給料アップを引き出す、みたいなことを試みたことは、それは何度もある。しかしその方法では会社からも当然敵対視されるようになるから関係が悪化するのは火を見るより明らかであり、おすすめできる方法ではない。テロリストと同じ手法だもの。


 僕は湯川さんの気持ちもまたわからないでもない。事業に失敗し、妻を失い、親とも疎遠、自殺未遂。そんな人生からの再起を誓って彼の地へ渡ったと聞く。しかし彼は初めから死ぬ覚悟があったのではないか、そんな気がする。あるいは、命をかけた「ラストチャンス」。半ば自暴自棄だったのかもしれないし、あの極限の世界で、自らの人生に見いだせなかった一縷の望みをつかむことができるのではないか、そんな悲壮な思いが秘められているようにも思える。行き場を失った、閉塞した日々の打開突破をイスラムの地に求めた。確かに自己責任は重い。国内外に波及させた衝撃や影響も小さくない。しかし彼は日本ではどうすることもできなかった、そこまで精神的に追い込まれていたのだと思う。


 後藤さんはそんな湯川さんを助けるために後を追ったと聞いている。湯川さんが拘束される前から二人には接点があり、危険な地域に湯川さんが足を踏み入れることを止められなかったその責任感から後藤さんは行動を起こしたという。結果として湯川さんも後藤さんも命を落とし、後藤さんは湯川さんを助けることはできなかった。後藤さんはたしかに男気あふれるジャーナリストだったかもしれないが、しかし仮に後藤さんは湯川さんの「命」を救えたとしても、果たして湯川さんの、彼が絶望の淵に立っている「人生」の救いをもたらすことができたかどうかはわからない。湯川さんは、自分の「命」以上に「絶望の人生」への救いを求めていたように、僕には思えてならない。


 こじれた思想、こじれた人生を立て直すのは簡単なことではない。人間は追い込まれれば追い込まれるほどに閉塞を感じ極端で短絡的な方法での打開を求めようとする。イスラム武装勢力が欧米に向ける敵意、湯川さんが退路を断ちイスラムの国に求めた再起の道。成功者が居れば敗北を喫する者も居る、それは人生の原則。しかし敗北を喫しても自信や成功を取り戻すことはできる。大切なのは「成功」のカタチはいくつもあって、なにも欧米的、または先日書いたマスコミが誘導するような世俗的なものばかりが成功のカタチではないということだ。成功のカタチがマス化され単一化、収束化している現状を知らなければならない。いたずらに単一化収束化された価値観に振り回されてはいけない。何に幸せを求めるか、何を持って成功とすべきかの価値観は、じつは様々のはずだ。様々であることを受容しなければならない。


 このたびのイスラム武装勢力と日本人人質殺害の一件に接して僕はこんな感想を持った。誰かから武器を取り上げるとか攻撃するとかしないとか、そういう話ではないと思うし、単に命知らずな奴が無鉄砲に危ない場所に踏み入ったとか自己責任とか、そういう議論では解決しないバックグラウンドを持っているように思えてならない。現代人の閉塞性が突き動かした事件と言えるのではないだろうか。



 いかがだろう。




前田恵祐


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