「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

トヨタ車がもたらす満足の特異性



 自動車という商品は社会と関係が深い。個人が所有できるモノの中で比較的高額な商品であり、それを身に纏って世の中に漕ぎ出していく、人に会いにいく、人に見られる、という性質がある。手垢のついた言葉で好きになれないが、その意味では洋服と同じである。


 その洋服にも様々な満足のカタチというものがある。個性的だがそのヒトをよく表すタイプのもの。あるいは没個性だが一目で社会的信頼(感)のようなものを認められるタイプのもの。あるいは、誰からも見た目は理解されなくても、着心地が優れていて、着用している本人の満足が極めて高いもの、などなど。こうしてみると、洋服の満足には他人から認められて初めて満足できるものと、あくまで自分自身が満ち足りるものと分かれていることがわかる。


 例えば、クラウンというクルマの存在意義について考えてみると、これはもう着心地とかセンスを表すとか言う前に、もはや社会的記号になりおおせているクルマだから、言うなれば、クラウンに乗ることのできるグループに属することの満足、ということになると思う。しかし、これはクラウンに限った事ではない。マークXにしろ、カローラにしろ、あるいはプリウスにしろ、トヨタ自動車が輩出するクルマというのは、社会の仕組みや階級を表すものであったり、世の中でエコロジーな生活を送っていることのひとつの印しのようなものであったりと、内的な充足というより、外的な満足が高い。


 自分はさておき他人の目に好く映ることから得る満足だ。


 それを好んで着用に及ぶということはすなわち「私は社会や世の中にコミットメントが高い人間です」ということを表現することになるのだと思う。しかし言い換えれば、「私は世の中や周囲の人の目を気にするタイプです」と言いふらしているようなものだ。世の中や周りの人と「同じ」であることに、満足というより安心するという心理的構造ではないだろうか。自分というものがない、しかし帰属意識は極めて強い。それが日本の社会構造というものなのかもしれない。


 トヨタ車に個性がないと言われる所以はここにあると言っていい。


 自動車という商品は、その発祥の頃から「個人の所有物」という認識が根強く、やはりというか、「個性」というものが求められる商品なのだと思う。そこから個性を弱めて一気に大衆化をはかったトヨタの功績は功績として、トヨタを敵に据えるライバル各社はそのことをよく理解しているのかどうか。少なくとも日産自動車はそのことを、たまに思い出してけっこう強力な攻撃に出てくることがあるが、数の正義に押されて「個性」は薄められ歪められる傾向にある。


 高いお金を払って手にした自動車という商品からは、やはり内的に深い満足を得たいと思うのも心理ではないか。他人や社会、世間にどう映ろうと「自分にはこれだ」と思うものを手に入れたい。自動車という商品がもたらす満足や充足の大原則はそこにある。そしてトヨタ車はおしなべてその原則を無きものとし、数の正義と社会への帰属心理というこの二つを「核」として独自の価値観を作り上げてしまった。それは自動車の歴史の中でも極めて特異なことではないだろうか。


 トヨタ車は選んでおけばまず安心、これは間違いないだろう。しかしそれはクルマ選びとしてはちょっと後ろ向きだ。自ら積極的に自分の性格や好みというものをもち、あるいは自分と向き合い、きちんとクルマ選びをする人にとって果たしてコナカのイチキュッパの背広のようなトヨタ車は魅力的に映るのだろうか。


 そして、そんなトヨタを迎え撃つ日産やホンダに、やるべき仕事は、今見えている他にたくさんあるのではないだろうか。





2015.12.16
前田恵祐

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