「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

自動車とは、アメとムチ



 私はこれまで、自動車にアクセサリーとして採用され続けている「安全」を謳う補助装置に否定的な態度をとり続けてきた・・・



 その理由の第一は、そのデバイスを備えてさえいれば、さも容易に安全運行を可能とするかのような振る舞いを、宣伝やマスコミを通じてメーカーがとり続けていること。もう一つは、そうしたものに依存してしまうことで、ドライバーが認識、あるいは察知しなければならない危険を取りこぼすようになる可能性が否定できない部分にある。


 自動車の運行とは本来運転者の判断と責任において遂行されなければならない。自動車が人間の領域に、どこまで入り込むことを許すか、という問題は、なにも今に始まったことではない。しかし、90年代以降、スピードの追求というそれまでの価値観が大きく崩壊し、自動車の進化の方向ははっきりと環境問題と自動運転の方向に舵が切られた感がある。人間の判断よりも機械やコンピュータに任せたほうが燃費は向上し、多角的なセンシングによりクルマが危険をより的確に察知し回避もする。これが今の自動車業界の正論といったところか。


 完全な自動運転化は、今のところまだ先の話で、今売られているクルマが実現しているのは、あくまでも補助装置としてのレベルに留まっている。だから運転者もまだ自己主体で運転をおこなっているから時としてこの補助装置の介入を疎ましく感じることもある、少なくともそのような声は私の元に届いている。しかしこうした技術が仮に今より信用に足るに至って、完全に機械任せにできるようになったとしたら、運転者はどうなるのか。単なる「システムの監視業務」ではないか。


 自動車の運行とはリスキーなものだ。自動車とは危険な乗り物であり、動き出せば即凶器になりおおせる。しかしそのリスクを知って、あるいはリスクをマネージメントしながら、自らの意思で運転操作をし、手足のごとく自由に操り高速移動をなさしめる、という道具、あるいは商品こそが自動車だ。自由とリスク、その両方を内包するのが自動車であり、それが自動車の醍醐味でもある。そこには人間が危険(=リスク)と向き合う謙虚さがあり、その謙虚さとの裏腹に欲望の開放がある。自動車の運転は安全運行という重大な課題に挑戦し達成しながら、同時にエクスタシーを得る。アメとムチ、であり、SとMかもしれない。


 それをすべて機械が勝手に判断してやってしまったとしたら、リスクは避けられても自由やエクスタシーもまた奪い去られてしまう。加えて、危険と向き合うということを、人間はしなくなってしまうだろうから、人間の無能化がどんどん進むことにもなるであろう。危険を察知、認識できなくなるのはイヤだ。これまで人類の叡智にかけて進化し続けてきたものが、そこで途切れ、退化してしまうような気がする。こうした自動車という商品の大原則が今、大きく崩壊していこうとしていることに気がつかなければならない。あるいは、気が付いておかなければ。


 今は半ばオモチャのような扱いで客引きのための道具になっている各種補助装置だが、そこには大きなリスクをはらんでいる。オモチャのようでいて自動車と人間の関わりを左右する、あるいは人間の退化を促すかも知れない重要なデバイスと認識しなければならない。


 最近の自動車がツマラナイという声が多いのは、みな薄々、私が今日ここに書いたような意味を感じ始めているからではないだろうか。自動車はドライバーに、もっと運転の「自由」を与え、あるいは「自由」を説かなければならないし、その自由についてまわる危険とリスクを良く理解させなければならない。補助装置などを見せびらかして安易に「便利」「安全」などというフレーズ用い、客をだまくらかすようなやり方などでは、抜本的に、自動車は良くならない。



 みなさん、いかがでしょう。







前田恵祐


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