「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

反乱の産物



そして今こそ「反乱」の時だ



 クルマを生み出す上で重要なこととは何か。それは一つではない。もしかすると世界に誇れる環境技術かもしれないし、どこにも負けないような安全性かもしれない。時に時代は過ぎ去ったが途方も無い速さもそれに値するのかもしれない。


 クルマと言うのは数多の要素が一つの製品として結実し世に送り出されるモノであり、そこには数万の部品、幾多の思想、そして数えられない議論が行なわれていることはいうまでもない。自動車会社そのものが非常に大きな組織体であり、やはり何万もの人間がそこに属し、職業としている。それらの集合体が一台のクルマ、製品なのだとしたら、それだけでクルマと言う製品がいかに複雑な構成要素を持っているかがわかろうというものだ。


 組織人として、大切なことはそこに属すもの皆が同じ方向を向いてはならないということである。これは拙いながらも複数の組織に属してきた私の実感であり人生訓である。組織体の規模が大きくなればなるほど皆が同じ方向を向き、そして走り出してしまったときの歯止めの効かない怖さを知るべきだ。故に、組織には異なる価値観や人生観、職業観が雑多に「受け入れられている」ことをもって健全体であると私は認識している。もちろんそれを統制することも重要であるし、また、意見の衝突と尊重というヒューマンスキルがモノをいうこともまた然りである。しかし意見の衝突は同時に自己検証の場である。


 自己検証の出来ない組織は盲目も同然である。そして今、多くの自動車会社がそのような情況にあると私は感じている。


 あるとき日産自動車はそれまでとは違ったクルマ作りを実験的におこなってみることにした。ベースは初代マーチ。しかしそのスキンを一新し、デザインは外部のアパレル業界の人間に託したのである。当時、組織として旧態化し硬直していた日産の中にそうした動きがあったということ自体、じつは奇跡的なことだと私は思っているのだが、Be-1というクルマはある種社内における反乱の産物であったと言っていいのかもしれない。









 Be-1で重要なのは、その希少性やデザインの優秀性だけではなく、クルマの作り方、そのアプローチを変えてみようと言うチャレンジが積極的に行なわれたと言うことだ。加えてさらにいうなら、「マーケティングデータ」という過去において収集された顧客動向に縛られた意思決定ではなく、アパレルデザイナーが持つ「今」に対する強烈な感受性を信頼したことがこのクルマの製品化に繋がった。いや、正しくは昭和60年東京モーターショーに参考出品し、そこで来場者からの多大なる関心と支持に自信を持った日産自動車が限定生産というプレミアム性を付加した形で販売を開始した、というのが経緯になる。

 Be-1以降の日産が決定的に変化したのは、内自転と独りよがりをやめたことだ。顧客の方を向いたクルマ作り、求められるクルマ作りに気がつけたことである。その成果として、私の大好きなY31セドリック/グロリアやシーマを皮切りに魅力的な製品を生み出していくというポジティブな連鎖が数年に渡って開花していく。・・・その更に後、バブルの終焉と共にそれは終わってしまうのだが。


 時は経て「今」。やはり自動車メーカーの意思決定システムは硬直化してはいないだろうか。それはリーマンショックや平成不況で、たしかにポジティブに商売を出来ない事情はあるのだろうが、しかしそれを理由に自己検証やチャレンジのチャンスを自ら見出せないでいるのではないか、私にはそんなふうに思えてならない。思うように売れないクルマ、「マーケティング」で実際には見えていないユーザーの顔、萎縮する意思決定。本当に顧客の声、顔を見れているのか。本当に時代の風を肌で感じることが出来ているか。その部分から検証を始めてもらいたい。


 Be-1を「お手軽グルマ」だと揶揄する向きもある。しかしそれは大きな誤解だ。そしてその誤解はクルマと言う商品を誤解している証拠であるし、クルマという商品に向き合おうという真摯な意思の欠如でもあると思う。今の自動車業界が過去、しかも、それほど古くはない、近い過去に学べることはたくさんある。そのことに気がつけていないというだけで、「やっぱり今のクルマ屋はクルマ好きが揃ってねえな」と思わざるをえないのだ。







前田恵祐


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