「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

安全意識について


この震災で感じたことは、
いかなる理論で武装し、積み重ね積み上げ、築き上げたものであっても、
しょせん地球には歯が立たなかった、
人間が人間の力で制御できるものなど、じつはこの地球上でごく限られている、
ということではなかっただろうか。


安全な原子力などない。
安全な海岸線などない。
安全な高層ビルもない。
だろう。
想定を超えることがあるという想定をしなければならない。


クルマに置き換えて考えてみる。


クルマはA地点からB地点までを高速に移動するための、
それを人間の意志によって制御しうることに値打ちのあるツールである。
そう考えた時に、いかに速い速度で移動しうるかが一つのわかりやすいテーマにはなっていく。
しかし、安全上の問題、地球環境上の問題、などなどが付随し、
それらがスピードを追求するテーマを追い越してしまった感がある。
あるいは、すべてを同軸上で両立させることが大目的になっているのかもしれない。


おかげでクルマは確かに高速化を果たし、以前より地球環境に優しくもなり、
そして安全性は向上したかもしれない。
だが、ここで思い出してほしいのは、いかに叡智の限りを尽くしたところで、
想定を上回ること、上回って破綻することがないとはいえないということだ。
予防線に想いを託したところで、その線はいとも簡単に破られる。
その可能性はないと、誰が断言できるというのか。


人間が自分の力で制御できるスピードとはどれほどのものなのか。
そう考えた時に、自転車で転んでも死亡する事故になりうることを考えれば、
じつは、乗り物に乗った時点で自分で制御できる範疇を超えるということになる。
少々乱暴だが。
自分で制御できる、あるいは、責任の持てる、と置き換えてもいいが、
そのスピードはせいぜい自分の足で駆け足をする速度と言ってしまうことも出来る。
しかし、人間はいま文明社会を生きていて、乗り物の世話にならざるをえない。
だからこそ安全装置という予防線を張る。


怖いのは過信である。
安全装置が存在するがために、
想定している範囲を超えた事故やアクシデントに対する意識は持てなくなってしまった。
空からモノが降ってきて頭にゴツンとぶつかれば、それは不慮の事故というかもしれない。
しかし、人間が制御しきれないかもしれない速度で高速移動するものが、
すれ違い行き交う現代の交通事情下にあって、不慮の事故が起こる確率はきわめて高い。
即ち、それは「不慮の事故」の範疇ではない、ということになる。
これは、いうなれば「想像力」の話しである。
エアバッグがたくさん付いていれば、電子制御で姿勢を制御してくれる装置が、
それぞれついてさえいればそれでいいというものではない。
安全意識とは、安全装置を金を出して取り付ける、ということでは、断じてない。


ある時期、自動車事故が激増し、死亡者数がうなぎのぼりになったことから、
世論は一斉にクルマの安全装置の不備を糾弾した。
自動車会社は一所懸命に安全性向上に努力をしたし成果も挙げただろう。
そのために確かに死ぬ人は減ったのかもしれない。
引き換えに「運転とは常に危険と隣り合わせ」という危機意識は薄くなったように思う。
安全装置が備わった自動車を買えば即安泰、そういう意識に変わりつつある。
それがここで言いたい「過信」であるし、もっと言えば怠慢であり傲慢だ。


クルマが機械として安全性が高まればそれで済まされる問題ではない。
安全装置について、私の認識を述べるなら、それは、
「まぁ、ないよりはマシ」。
それくらいのものだと実際思うし、それでちょうどいいと思う。
クルマにはそれなりの緊張感や心構えで乗り込む。
リアス式海岸に住む人々だって、
防潮堤は建てたが、それとて「ないよりはマシ」程度の思いだったからこそ、
日々、避難訓練を欠かさず、今回もより高い高台へ避難したわけである。
危機に対する想像力とはそういうものだ。










前田恵祐


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