「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

正解と見解とは?



 なにやらどこかの媒体が付ける記事のタイトルのようですが(・・;)


 簡単に言うと、正解というのはひとつしかないものですね。白か黒か。しかしどうしてこうも現代人というのは正解に囚われるのだろう、と考えると、まあ僕の中ではとっくに答えは出ていて、それは他ならぬ「学校教育による悪弊」だということですね。


 理屈は簡単です。学校の勉強方法はひとつの「正解」に向かっていくだけのことしか教えない。マルがたくさんついてテストの点数を稼ぐ、それをもって人物評価とする、極めて単純で、かつ実情に即していない「価値観」を長年に渡って植え付けた上で人間を社会に送り出すものだから、たとえば新卒採用された若者でありながら、思考回路はビックリするほど硬直していて、しかも視野が狭い。そしていざとなると白か黒かという判断しか下せない。慎重さとか注意深ささえない、それもやっぱり学校の勉強と価値観に従ってさえいればいいという教え方に問題があったんでしょうね。ま、僕は学生をしていた期間は人様の半分以下だからこういう見方ができるわけなんだけれど。


 僕はね、ひとつこだわりがあって、徳大寺有恒は尊敬する先輩だけど、でも徳大寺有恒にはならないし、なんなら支持もしない、と思ってずっとやってきた。どういうことかというと、彼は自著で日産レパードの評価文としてこう記している。


「ソアラが目標ならソアラには勝てない」


 つまり僕は徳大寺有恒を目標に据えてしまったら徳大寺有恒を超えることはできない、そう見て取って即座に認識した。今から25年前のことですね。ま、実際にレパードがソアラを目標にしていたのかどうか、も疑問だし、実際違うと僕は認識もしているのだけれど、そういうことではなくて、他者に「目標」や「正解」を求め、設定してしまうとその範疇でしか物事を考えることができなくなってしまう、というひとつの人生訓だと思っているんですね、彼のこの発言は。その意味において、彼は僕に大きなものを授けてくれたとは思う。だけど、僕は彼のこの言葉をもって彼を追うことは一切しなかった。いつかどこかで握手のひとつでもできる日が来たらいいな、とは思っていたけれどね・・・


 世の中では、教育というのは人を何かに従わせることだと思い違いをしている人が多いし、実際、教育者としてもそう教わってきたのだろうし、他に価値観や基準を求めようがないこともわかる。だけど、でも、それを乗り越えられた人だけが「見解」の意味を理解することができるようになるのだと思う。あくまでも自分軸の、しかもひとつの見解。正解でなく。正解になってしまうと、それが世の中すべての正解にならなければいけなくなるし、他者との相違差分を受け入れられなくなってしまう。その点「見解」はあくまでも自分の中の、でも、それなりに考えた上での「見解」だから、自信をもって発言もするし、相違差分を受け入れることだってできる。だけど今、それを教えられる人、いないんじゃないかな。


 うちのお客さん(読者の皆さん)はよくできた人が多くて、このあたりはもう織り込み済みという感じなのだけれど、やっぱり世の中には学校教育が教え込む「正解」価値観ドップリでしかもそれに何も疑いを持てていない、それで他人と衝突を繰り返す上、タチの悪いヤツは悲劇の主人公気取りになり果てる”考え足らず”が五万といる。それはそれはもう、びっくりするくらいダメなヤツばかりだと改めて思うよね。挙句うつ病。じつにオメデタイ。


「正解」にとらわれていると、なかなか「自信」というものにはたどり着けない。だって自分の中に正解がないから。他者や自分以外にある正解を追い求め続けるということだから、自分の中にナレッジが構成されていかない。だから「見解」を持つだけの材料にも乏しいという結果になる。人としてまったく豊かにはなれない。「あの人がこう言ったから」「データがそう示している」この程度の根拠でしか行動や決断を下せない。これウツの原因のひとつだと思ってください。


「自信」というのはね、他者をハネ除ける、論破することとは違うんだよね。他者との相違差分を受け入れながら、でも自分の軸はブレない、という状態の事を言うの。わかるかね。ま、その意味では僕はそうとうな「自信家」ではあると思う。





前田恵祐
.

拍手[11回]