「新車試乗インプレッション」と「自動車批評」を主とするBLOGですが、ここに記されているレポートは鵜呑みにせず、ご自身で何事も検証してください。自己検証が大事だ、と言い続けたいブログなのです。 キミたちはもっと利口にならなければ、利口になろうと思わなければならない!

運転者の仕事を変えられるか

昨今流行りの「自動運転」技術について...(2013.1)

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 自動車とは読んで字の如し、自動的な車である。そもそも人間は足を使って移動した。それが徐々に様々な技術が用いられ現代の自動車というカタチにまで到達している。ここ半世紀の間にクラッチペダルがなくなり、そしてシフトレバーもどんどん退化している。自動車というカタチを持ってさらに自動化技術は進歩しているということだ。


 私は自動ブレーキには反対の立場を採って来た。自動車の運行には最終的に人間の意思と判断があって初めて責任を担保できるものだと考えるからだ。これを手放してしまうと人は自動車の運転をすべて自動車任せに出来、そしてすべての責任を自動車預けとすることが可能となってしまう。意思と責任を持って生きることが出来る人間本来の営みに反していると私は今でも考えている。


 しかし、昨今この自動ブレーキを含む、カメラを用いた自動運転に向かっていく技術の発達は著しい。事実私は昨年三菱のアウトランダーで極めて精巧に動作するほぼ完全な追尾型クルーズコントロールを体験し、その技術の可能性の高さを痛感した。これはさらにカメラの精度や解析レベルを高めていけば完全な自動運転は可能になると確信できた。この事実は動かしがたい。そしてそれは人間の労力を大幅に軽減する可能性がある。




 ナビゲーションで目的地をセットし、ボタンを押せば勝手に、しかも安全に自動車は走り始めるようになるかもしれない。こいつは凄いことだ。例えば、高齢運転者にとってこうした技術は歓迎すべきものになるだろう。あるいは、重労働である長距離ドライバーにとってもそれは同じ意味を持つだろう。


 こうなると、運転者たる人間の仕事そのものが変わってくる。意思と責任で操縦することではなく、システムが正常に作動しているかの「監視業務」に近くなってくる。そいつはもはや航空機の運行業務に近いものがある。しかし、いかに自動運転とはいえ、監視を怠ることは出来ない。それは機械に絶対はなく、必ずといっていいほど「不具合」というものが存在するからだ。それはなぜかといえば、いかに完全だと思われるプログラミングをもってしても「人」という不完全な動物が作り上げたものでしかなく、しかもそれは新品の時に例えば5年10年後の正常動作を保証するものではないからだ。機械は確実に経時劣化を免れない。


 そうなると、いかに「監視」でよいとはいえ、その業務には気を抜けない。時としてヒヤヒヤ物の仕事になっていくだろう。10年10万キロ走行という、例えば未踏の領域で自動運転車を100パーセント安心して「監視」していられるだろうか。それに、人はすることがなくなると怠ける。最たるものとして居眠りや飲酒、あるいは携帯イジリをしながらの「監視」というのも問題になってくるのではなかろうか。


 ここまでくるともはや道徳観の問題だ。秒速数十メートルで走行する1トンや2トンの金属の塊を操る、あるいは「監視」する者として、やはり担保すべき道徳観というものは存在すると私は思う。ましてや操る行為を手放した人間がどこまで自信を持って自己責任を保ち続けられるのかという問題は、自動運転技術の発達にあって軽視できない、しっかりと議論されて然るべき課題だと私は思う。


 新しい「自動運転」というい技術に接して、その可能性の高さや斬新さは大したものだが、もっと重く受け止めなければ成らないテーマが存在していることを認識し、あまり浮かれない方がいいと、やっぱり思い直すわけである。







前田恵祐


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