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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

あの頃の日産が良かった理由~1986年



 この前年、1985年は日産を代表する車種の一つであるスカイラインのフルモデルチェンジイヤーであったが、時代に迎合するかのように自らを見失い、ライバルのマークⅡの路線を踏襲するハイソカー的なクルマとして登場し、ヒンシュクを買った。スカイラインの本分は常に新しい技術と最上級の運動性能をもち、レースにも強いというイメージが出来上がっていたところに、「らしくない」とひと目で分かってしまう7thスカイラインは受け入れられなかった。日産の混迷を象徴するクルマだったといっていいだろう。


 1985年は日産自動車にとって社長交代の年でもあった。久米社長は就任すると行き過ぎた縦割り組織をよりリベラルなものに改革をしていく方針を打ち出す。社内の慣例や職制の変更、給与や人事に至るまでにメスを入れ、風通しよく、自由に発言し、自由な考えや価値観を生み出しやすい環境を整備していった。しかしその効果が現れるのには時間がかかる。新車開発には最低でも3年のリードタイムが必要になる。



http://www.favcars.com/nissan-leopard-uf31-1986-88-wallpapers-212142



 明けて1986年の初頭にはレパードの二代目が登場する。しかしこれもスカイラインのようにトヨタ車、ソアラの後を追うようなスタイリングやメカニズムを持ち、独自性において不満の残る仕上がりと言えた。ましてやソアラもまた同時期に二代目を発表したが、初代を大幅に上回る動力性能に洗練されたスタイリング、豪華さの増したインテリアなどを持ち、それが日本人のさらなる高級志向と合致。豊かさの象徴として強く認識される。二代目レパードはまたソアラに歯の立たないクルマになりおおせてしまう。


 二代目レパードは地味なクルマだった。それはソアラが派手だったからでもあるだろう。まるで月のような存在感とでもいおうか。二代目レパード発売直前に主管を命ぜられた山羽氏にはきっと二代目ソアラの噂が聞こえていたはずだ。


 「アダルト・インテリジェンス」・・・大人っぽく知的、を意味するキャッチフレーズは苦肉の策のようにも思われたものだ。


 二代目レパードの敗因は、「初代ソアラ」を意識しすぎていた点にある。その証拠に、二代目レパードのデザイン画やモックアップを見ると明らかに「初代ソアラ」そのものを「描こう」とする意思がありありと分かる。二代目レパードがライバルとするはずの二代目ソアラがどんなクルマになってくるのかという計算が「欠如」していたという他ない。


 人は追い詰められると盲目になってしまう。本来ならソアラが大幅にグレードアップして来るであろうことは容易に想像できたはずなのに、その観点が持てていなかったことに当時の日産自動車のスランプの深さ、自信のなさを見て取れるように思う。


 しかしそれも次第にモヤが晴れていくかのような兆しが見え始める。


 1986年5月には三代目パルサーを発表。このクルマには地道に研究を重ねたビスカスカップリングを採用したフルタイム4WDシステムが搭載され、それをきっかけにこの年のカーオブザイヤーを獲得している。


 三代目パルサーはしっかりとした研究開発、手間と時間をかけた実験等により、ヨーロッパ車にも匹敵するような走り味を持つことが大きな特徴となっていた。車体剛性の確保やサスペンションストローク、ジオメトリーの研究、また先のビスカスカップリング式フルタイム4WDや気持ち良く回る、ドライバーを喜ばせるエンジンなど、見ても乗っても走らせても満足感の高いファミリーカーに仕上がっていた。


 このクルマを見て、このクルマに乗って、多くの日産ファンが「技術の日産ここにあり」を強く感じたに違いない。


 三代目パルサーの千野主管はくだんのビスカスカップリング式フルタイム4WDを実用化するにあたって、じつは社内の反対論が根強くあったことから、従来のパートタイムでも行けるように平行開発を行っていた。しかし新しいパルサーに、あるいはこれからの日産に革新的なビスカスカップリングは必要となる技術であり、大きなセールスポイントとなることを確信していた千野主管は、多くの反対意見を押し切って「ビスカスで行ってしまった」のだという。それが結果として大きく評価され、カーオブザイヤーにも結びついた。


 社内に蔓延する古めかしい考え方を駆逐しようとする力が同じ組織の中に同居していて、それはまるで新しい細胞が体内に生み出そうとするかのように、古い細胞を飲み込み、切り崩す力となって作用した、これはひとつの象徴的な例だったのだと思う。



http://www.favcars.com/nissan-langley-sedan-n13-1986-90-pictures-4548
※これはパルサーの姉妹車、ラングレー



 日本カーオブザイヤーという表彰が始まって初めての日産車の受賞。しかも自信を持って世に送り出した新技術を高く評価されたことで、多くの日産マンが小躍りするほどの喜びであっただろうと、今は想像する。なにより彼らは自信を取り戻そうとしていたのだ。


 十全に作り込みを行なったクルマを送り出し、評価を受け、売れて、人気が高まり、顧客からのラブコールのような声も届くようになる。すると、今までどうがんばっても見えなかったものが次第次第に見えてくるようになり、聞こえなかったものが聞こえてくるようになる。良い製品を提供することで顧客との関係性も大きく改善され、顧客が喜ぶこと、評判が高まることの喜びが、すなわち日々の仕事に結びついてくる、仕事が楽しくなる、という好循環を、のちのち彼らは自ら生み出し、身を持って体験していくことになる。人としてイキイキと瑞々しくクルマを作る楽しさに目覚めていく・・・


 1986年の日産自動車は、こうしてハッピーエンドで終わっていくのだった。僕も当時のことはよく覚えている。暮れに日産銀座ギャラリーに出かけると、溢れんばかりの人でごったがえし、当時出たばかりのラングレーのカタログをもらおうとしても品切れというありさまだった。少し前の、薄暗く活気のない日産自動車が、大きく生まれ変わろうとしていることを強く印象づけられたのである・・・



つづく。




2016.10.2
前田恵祐

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