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あの頃の日産が良かった理由~当事者に聞く(2)【前編】



 1987年6月、清々しい初夏の陽光を受けながらベールを脱いだY31型セドリック・グロリアにはただならぬモノを感じていた。それまで肩肘張って威厳や威光にすがるように生きていたものが、まるで憑き物が落ちたかのように柔らかな物腰と表情をたたえていた。

 当時、日産はY31を皮切りに、シーマやS13シルビアというスマッシュヒットを、まるで軽やかなステップでも踏むかのように立て続けに飛ばし、経営も、クルマづくりも、一気に不振を脱した。この変わり様はどこから来たのか、誰がどのように何を変えれば、大きく風向きを変えることが出来るのか。Y31型セドリック・グロリア、シーマの商品主管、三坂泰彦さんに確かめる時が来た。


前田恵祐(筆者) 今日はこれ(筆者のY31グロリア)に乗って来ました。

三坂泰彦さん あなたのクルマなのですか?

前田 はい、平成元年式、3000でターボなしのブロアムです。

三坂さん Y31が出たのが昭和62年、懐かしいですね。

前田 もうなかなか状態のいいクルマがありませんで。

三坂さん ほら、これのセダンがタクシーで、まだ沢山走っていますでしょう・・・




 都心の雑踏に紛れながら、いまなお元気に客扱いに勤しむY31型セドリックの姿に目を細める三坂泰彦さんの言葉や表情からは、静かな喜びで満たされている様子が伺えた。27年という長期間、生産され、デビューさせてから30年が経過しようという今日、未だに現役で走り続ける「我が子」の姿を日々目の当たりにできる喜びは、格別なものに違いない。

 三坂泰彦さんは昭和13年10月28日、満州国大連市うまれ。昭和36年、日産自動車に入社、国内販売部に配属。以降一貫して営業畑を歩まれた。昭和60年、商品開発室、車両開発統括部主管に就任。Y30型セドリック・グロリアのマイナーチェンジを皮切りにY31型セドリック・グロリアとシーマの開発の総まとめを勤めあげた、いわばY31セドリック・グロリア、シーマの父ともいうべき方である。

 当時の資料も残っていない中、しかしY31セドリック・グロリア、シーマのチーフデザイナー、若林昇さんからお話をうかがった時にも感じたように、じつに細やか、生き生きとした記憶とともに、三坂さんもまた当時のことをまるで昨日の出来事のように話してくれた。


前田
 先日若林さんとお会いしまして、いろいろお話を伺いました。

三坂さん 私もね、あの時のデザインに関しては、承認済みのものはどうも「今ひとつだな」と感じていたのだけれど、でもデザイナーに直接それを言ったら悪いかな、と思っていたんです。そうしたら若林君たちが「勝手」に変えてきたんですよ(笑)

前田 いろいろなところで、三坂さんや若林さんのお話を本で読んだりしますけれども、そうするといたるところに出てくるキーワードというのがありましてね、それは「好き勝手」なんですよね。

三坂さん そうかもしれないね(笑)、もうね、我々、組織人じゃないんだな(笑)

前田 そこが成功の秘密だったのではないですか。

三坂さん しかし、あの時は「ちょっと手直し」なんてモノじゃなかったからね(笑)


 お会いして最初に出てきたお話が「タクシー」と「デザイン変更事件」の二点。あらゆる事情があるとはいえ、あの時「好き勝手」にやって作ったクルマがタクシー営業車としてでも27年もの間、現役として生き延びたという事実、そして作り手の直観が突き動かした「デザイン変更」とその結果の商業的成功。

 こういってはなんだが、三坂さんと筆者のY31観は一致しているのかもしれないと思った。少なくとも、今日、語るべき重要な事柄は、話し始めてすぐに共有できた気がする。


キーワードは「ゼロヨン」

前田
 Y31というクルマをおやりになるにあたって、どんなクルマにしたいとお考えだったのでしょうか。

三坂さん 私どもとしては、クラウンに対して、セドリックが同じ土俵で勝負したのでは絶対にかなわない、と。販売力も違うし。そこで走りを重視した「グランツーリスモ」をメインにしたわけです。それがセドリックとしての生きる道だったのだと思いますよね。しかし発売前の内見会などで工場やディーラーの社員に見せるということをやったのだけれど、そこでは反対意見が大きかったですね。前の四角ばったのが良かった、と。

前田 Y30のことですね。

三坂さん 今度のセドリック(Y31)はセドリックじゃない、と散々言われてね。でも従来型がイメージしているようなショーファー付きユーザーというのは1割にも満たなくて、本当は少なかったんですよ。実際はオーナードライバーが多かった。だからその点をとても重視して、セドリックの生きる道を探そうと考えたんです。私も運転が好きだから、大きなクルマでもキビキビと走ったほうがいいだろうと考えた。

前田 私もクルマが好きで当時からずっと追いかけていたのですが、このクルマを最初に見た時の印象というのはとても強いものがあって、当時の日産自動車が抱えていたスランプやわだかまりのようなものを一気に破壊するような、新しい考え方で刷新するかのような、そういうイメージが強く残っています。

三坂さん こちらもそのつもりで作りましたからね。

前田 当時の雑誌にも載っていますが、こんなふうにセドリック・グロリアがドリフトしながら走る、というイメージはなかったですよね。今日乗ってきたY31がじつは個人的に初めてのY31なのですが、ライバルと比べてずっと運転が楽しくて軽快に立ち回ってくれるクルマに仕上がっていますよね。BMWのようだと思いました。

三坂さん 当時3リッター(ターボ)車のゼロヨンは、たしか18秒を切っていたと思うんです・・・

前田 某自動車誌のテストデータによれば17秒1です。そして2リッター・ターボのグランツーリスモはさらに速くて、16秒台です。

三坂さん あれ?、そんなに速かった(笑)

前田 ゼロヨンの数値目標のようなものがあったのですか?

三坂さん ありました。私は技術的にはド素人ですからね(笑)、エンジニアたちのいうような細かなことはわからない。でもゼロヨンという尺度によってスタートダッシュの速さを、当時のお客様に対しては端的に表現できると思ったんです。ライバルはせいぜい18秒台ですから、それを下回ることを目標にしていました。

前田 三坂さんは、技術屋さんというよりも営業系のお仕事を長くされていらして、その意味ではお客様の気持ちに近いところにいらっしゃる方なのかな、というふうに思うのですが。

三坂さん 日本国内営業ですが、市場調査、マーケットリサーチを15年やっていました。それでお客様の声をまとめて、技術部門に要望としてぶつける、という仕事をしていました。営業要望、ということですね。それがある日突然セドリックをやれ、と言われるわけなんですが、技術的素養はほとんどないと。でも営業部門にいた時には商品の値段をつけるにあたって、例えばですが、ゼロヨンで1秒速ければお客様はそれをいくらで買ってくださるか、というようなことを計算していたりしていましたから、とくにY31にはそうした要素を盛り込んだ、という面がありますよね。

前田 たしかに、それまではこうした大きなクルマでゼロヨンという言葉が出てくることは、なかったですよね。

三坂さん ディーラーでは根強く「運転手付き」というイメージが定着していたけれど、市場調査の結果ではそうは出ていないわけです。「運転手付き」のユーザーはせいぜい1割程度。そんな1割程度のお客様のためのクルマづくりをしていては、これはどうにもラチが開かないぞと。あとの9割にもなる人達というのはどういう人たちかというと、やはり、若くて、30歳代後半から40歳代、職業も中小企業の経営者だったりすることも多いわけです。それなりの社会的地位にあって、かつ自分でハンドルを握る人たちですね。今までそのような人たちというのはソアラとかマークⅡといったクルマに乗ることが多かったのだと思いますが、そこからさらに上に行こうとしても受け皿がないと。そこが狙い目になるよ、と話していた記憶がありますね。

前田 当時のお客様の気持ちとしては、自分でハンドルを握りながらも、さらに上級なもの、ハイグレードなものを、と求めている時代でしたよね。

三坂さん それをさらに追求する意味で「グランツーリスモ」という名称も与えて新しい価値観を見つけ出そうと試みたわけなんですが、社内からは「常識がない」と(笑)

前田 常識がない、ですか(笑)

三坂さん それで出してみたら評判が良かったわけなんだけれどね(笑)


 Y31型セドリック・グロリアのクルマづくりにおいて重要なポイントの一つに挙げるべきは「社内理論」を打破する、顧客の方に顔を向けた姿勢である。三坂さんは営業部門に長く携わり、市場感覚や顧客心理のキャッチアップに長けていたということもあるが、顧客が今後新たなる高級乗用車に何を求め、何に喜ぶか、という「読みの鋭さ」も特筆しておくべき点だろう。今までの保守的な路線を磨き熟成することで、一定の評価は得られるだろうが、ライバルとの膠着状態や当時の日産の経営環境を鑑みて「新たなる常識」の創出こそ、この時、三坂さんが感じていた使命だったのではないだろうか。その象徴こそあのデザイン、走り、そして「グランツーリスモ」という新しい高級車の価値観だと筆者は思う。

 しかし、営業部門で育った三坂さんにとって、まるで畑の違う技術屋さんたちの輪の中に入って仕事をするというのは、口で言うほど簡単なことではなかったようだ。


危機意識と人事交流

前田 思い返してみますと、Y31というクルマ、あるいは三坂さんたちのお仕事ぶりというのが、あの時代の日産自動車にとってひとつの転換点になっていたのだと思うのですが。

三坂さん そうだったのかもしれませんね。まあ、中にいると「抵抗勢力」がいっぱいいるけれどね(笑)

前田 「組織人」でないとご苦労も多いでしょうね(笑)

三坂さん その点では、技術屋さんというのはやはり几帳面でしたね。中には組織人じゃない人もいるのかもわからないけれど、良くまとまっていましたよね。私がいた営業部門というのは個人商店のようなところもあって、当時あまり組織の力で動くというような雰囲気はなかったのですが、NTC(日産テクニカルセンター)での統制の採れた組織感覚の中で仕事をするというのは、ひとつのカルチャーショックでもありました。

前田 やはり、三坂さんのような”門外漢”を、それでも敢えてセドリックの責任者にしようとお考えになった方がいらっしゃったということですよね。

三坂さん 当時副社長の園田(善三)さんは技術屋としても優秀でしたが、組織を統括する能力にも非常に長けたものを持っていて、園田さんが言うには「クルマは機械だけど、商品なのであって、商品は誰かに買ってもらわなければならない、そのことを考えられるヤツじゃないといかん」というような話をされていましたね。技術力だけではないぞ、と。

前田 そうなると、逆に営業畑であったことが強みになりますよね。

三坂さん 元々営業部門の中でも私は設計に近いポジションではあったんです。当時商品主管の権限も拡大されたということもあって、企画設計から販売戦略、宣伝効果といったトータルの計画に商品主管が責任を持つということになりました。そこで、まあ、私は目をつけられたってことですね(笑)。

前田 技術屋さん出身の主管という方が多いのでしょうが、そうした営業的要素を含めた、トータルな視点を持つということがクルマづくりに求められている時代でもあったわけですよね。

三坂さん 技術屋さんと営業とでは言葉が違う、あるいは視点が違うというのはありますよね。それぞれの守備範囲というものもあった。当時日産も低迷期で、なんとか現状を打開しようと思っていたわけでね。そこで、なんとか縦割り組織に新しい風を、ということで人事交流をしよう、という動きになった。役職クラスを含めて数名、技術部門と入れ替わりがあったのです。

前田 そうすると、三坂さんのような営業に長けた方にセドリックを任せよう、という動きに象徴されるように、社内的にも危機意識があって、中から変わっていこうという動きはかなりあったのですね。

三坂さん やはり部署間のコミュニケーションが不足しているという認識はかなりありました。とりあえず人を入れ替えて刺激し合おうと。昭和60年あたりのことだったと思います。

前田 久米(豊)さんが社長に就かれたのが昭和60年でしたよね。

三坂さん 久米さんもやはりコミュニケーション不足を感じていらして、いろいろアイデアを実行された。たとえば「ナニナニ部長」などの役職で呼ぶのではなくて「さん付け運動」などですね。

前田 ちょうどそんな時期に合わせて三坂さんはセドリックの主管に着任されたわけですね。

三坂さん 簡単に言えば、私は社内の空気を入れ替えるための要員だった、ということなんですね(笑)

前田 でもそのおかげでクルマは良くなったし、しかも、その後にも続きましたよね。良いモノがどんどん出てきた。

三坂さん 例えばBe-1なんていうのもその一環のようなものでね、Be-1が出て一時小康状態というか、やや持ち直し始めるという雰囲気も生まれたりしました。

前田 Be-1は若いデザイナーの方の作品を採用したものとお聞きしています。

三坂さん それこそ、若いのがやりたいようにやった、それをそのまま採用したということですね。それまでのクルマ作りの感覚とは違っていましたね。年寄りがアレコレと「口を出し」するのが従来のやり方です。

前田 そんなBe-1のような商品を売ろうと決断したのもひとつのチャレンジだし、変えていこう、変わっていこうという意識の現れだったのですよね。

三坂さん あまり車種を増やすとイメージが散漫になってしまうのですが、その意味でBe-1はあくまでも限定車として印象を強めておいて、お客様にディーラーに足を運んでいただくきっかけになればとも考えました。そしてディーラーに来ていただければ他の車種に対する購買の機会も増える、という読みも当然あったわけですよね。その後のパオやフィガロも同様の効果がありました。

前田 そんな中でY31をはじめとするあらゆるクルマを魅力的に見せていたのは、背景として、日産自動車そのものが大きく変わろうとしていたという流れが明らかに作用していたのでしょうね。

三坂さん それはあると思いますよ。


 なにも三坂さんや若林さんだけが危機意識を持っていたというわけではなく、じつは経営側にも同様の認識はあったということがわかる。作り手の熱意がトップを動かした、という認識が筆者にはあったが、トップもそのことがわかっていて、あるいは時同じくして認識を共有していたことで、うまく統制を図ることができた・・・そんな側面もあると、認識を改めたほうがいいのかもしれない。ここで出てくるキーマンは当時副社長だった園田善三氏である。園田氏の采配が「空気の入替」に大きく作用していたことが伺える。

 もうひとつ挙げておくべき点があるとするなら、三坂さんの発言にある「商品主管の権限が拡がった」という件である。複数の価値観や考えが集まって合議的にクルマを仕上げるというより、一人の人間の純粋なヴィジョン、あるいは価値観を、しかも責任を持って一台のクルマに反映できるような仕組みに変化させていったことが伺える。Y31もそうだが、例えば、これによって伊藤修令主管によるR32型スカイラインのような、皆さんがよくご存知の名車が誕生する土壌となったということなのかもしれない。


名コンビ誕生

前田 先日お話をうかがった若林さんのお仕事ぶりも、やはりそんな動きに呼応するようなところがあったのでしょうね。

三坂さん きっとそうでしょうね。若林君はそれまでの硬直していた会社に対して批判的でね。「座して死を待つのか」というような雰囲気がありましたよね。そういう考えのとても強い男ですよ、彼は(笑)。デザイン部の中でもとくにそういうタイプだったと思います。シーマの時なんかも、彼には口を出すとうるさいんですよ。「俺に任せるなら口を出すな!」ってね(笑)

前田 「素人は口を出さんでください」は若林さんのお仕事ぶりを象徴する名言だと思います(笑)

三坂さん 「俺は素人じゃない!」って即座に言い返したけれどね(笑)

前田 やり取りが目に浮かびます(笑)

三坂さん 彼は優秀な男でね。非常にポリシーがあるからナイーブな技術屋さんは彼を前にすると参ってしまう。商品主管で若林君と話ができたのは私だけだと思いますよ(笑)

前田 若林さんは日産のような組織の強い会社の中で珍しいくらい、ポリシーのある方だとお見受けしていました。

三坂さん 日産のデザイナーがみんなあんなだと思ったら間違いですよ(笑)。でも、素人みたいな私と、ちょっと異端な若林君とはウマがあったということなんでしょうね。

前田 お二人別々にお会いしましたが、わかるような気がします。

三坂さん シーマのモデルを作っているときなんかも、私には何をつくっているのかわからないんですよね。ナマズみたいだとか電信柱をちょん切ったみたいだとか言っていました。

前田 丸太ん棒を輪切りにしたみたいだ、と。

三坂さん こんなものが本当に売れるのかと思ってあれこれ口を出したら、「素人は口を出さんでください」とやられるわけだ(笑)

前田 そうすると、当初はシーマのデザインが本当に売れるのか、懐疑的でもあったわけですか。

三坂さん しかし出してみればあの人気です。わからないものですよね。やはり彼の才能によるところが大きいですよ。

前田 若林さんはシーマ以降、セフィーロやローレルなど、いろいろと携わっていらっしゃいましたよね。

三坂さん 中型以上の高級車に関しては、直接でなくとも監修といった形などで彼は多くの車種に関わっていたはずです。

前田 若林さんがデザインを選別したり監修したりする役職に就かれてからは、ご自身の経験をもとに、「若い人に口出ししてはいけない」と思いながら仕事をしていた、とも仰っていました。

三坂さん そうだよね、自分は上司にそう言っていたわけだから(笑)。しかし芸術家だからなあ、彼は。それも生半可な芸術家じゃないですよ。ああいう精神を持ち続けるというのは大変なことだと思うな。

前田 会社組織の中でああした気持ち(反骨精神)を保ち続けるというのは大変なことですよね。若林さんのような方がいらっしゃって、そして三坂さんのようなフレキシブルに物事を考えられる上司の方がいらっしゃって・・・

三坂さん いい巡り合わせだったと思いますよ。若林君がいなければできなかったし、私が着任しなければ、やはりできなかった仕事だと思いますね。若林君もああいう性格だから、一匹狼みたいなところがあってね。芸術家肌の人はそういう人が多いですよね。あるエンジンを積むために少し車体を膨らませてくれ、と要望したことがありましたが、「そこは譲れない!」と返される。もう1ミリ2ミリの世界で戦っているのが彼らの仕事なんですね。だから「素人は口を出さんでください」っていうのも、もっともなことなんですよ。やはり自動車というのは寸法の制約がまずあって、その中にエンジンやサスペンション、シャフトなどいろいろなものを搭載しなければならない中でデザインを仕上げるというのは、とても大変な仕事だと思いますよ。その意味ではどんなクルマにしても苦労は同じなんですよね。苦労は同じなのに売れないクルマを担当するというのは天と地ほどの違いがあると思いますよ。



 三坂さんの目に、若林さんは「ちょっとトンガったところのある芸術家肌」というふうに映っていたようだし、筆者にも同様の印象がある。オリジナルのY31型セドリック・グロリアのデザイン変更の一件しかり、あるいはシーマのデザイン過程において感じられるある種の「集中力」にしても、単なるサラリーマン仕事というより、その職に「身を投ずる」という言葉がふさわしいほどの気骨を感じさせる。そうして取り組んだ仕事の成果が、あの爆発的人気として花開いたのだから本当にすばらしいことだと思う。三坂さんは若林さんの話をするとき、まるで「共に戦った戦友との思い出」を語るかのように言葉を弾ませた。






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