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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

あの頃の日産が良かった理由~1989年



 セフィーロという新世代のセダンが誕生し、それに続きローレルやスカイラインがこのセフィーロをベースとして登場することは予測されるところだった。セフィーロの若々しいコンセプトに対して、現れた6代目ローレルはその逆を行く「保守本流」ともいうべきコンセプトで、あからさまに中年以上をターゲットとしていることが伺われた。


 それまでの日産は、姉妹車をむやみに生み出し続け、しかもそれぞれのキャラクターも似たり寄ったりのどっちつかずなイメージが付きまとったが、セフィーロ/ローレルに関しては明らかな「棲み分け」がなされていた。



http://www.favcars.com/photos-nissan-laurel-c33-1989-93-212014



 ターゲット層をはっきりと分けて、それぞれの車種ごとに、より絞り込んだコンセプトを与えキャラクターを明確にする。簡単に言うと、そうしたクルマ創りにはブレが生じにくい。作る側の迷いや妥協のようなものを、ユーザーは目ざとく突き止めるものだ。その点に留意し、日産は注意深くこのクラスのクルマをセグメントしたのだと思う。


 C33型ローレルの良いところは、中高年向けをイメージさせながら、決して年寄り臭くないところである。どこか趣味の良いブランド物のスーツのような、ビシッとサマになった佇まいを見せているところだと思う。インテリアにもイタリアの高級車、ランチアのアイデアを取り入れた「エクセーヌ」やツヤ消しのウッドなど、それまでの高級イメージとは一線を画した、新しく、成熟した価値観の提案が用いられていた。


 それでいて走りもいい。基本的にはシルビアに端を発した足廻りをセフィーロに続いて採用しているものだが、この落ち着きにしてシャープな身のこなし、と同時にしなやかさのある重厚な乗り心地など、やはりこのクルマのターゲット層にも走りを楽しんでもらいたいという意思が感じられる仕立てとなっていた。やはりこの頃の日産の共通項は「走りがいい」ということだった。


 マークⅡ三兄弟がどれも同じようで、しかも従来の価値観から抜け出さない保守的なクルマであったことに対して、セフィーロ/ローレルはそれぞれにはっきりとした性格づけを行ない、それぞれのキャラクターを突出させることで、なんとなく買ってもらうのではない、気に入って買ってもらえるクルマ創りを目指していたことが理解できる。


 そして、そうなると時機に現れるであろう新型スカイラインに、どんなコンセプトやキャラクターが与えられるのだろうか、と期待が高まってくる。これまでの日産が見せてきた技術力の高さやクルマ創りに対する感度の高さからして、これは相当なものになってくるのではないか、と・・・


 1989年5月。満を持して8代目スカイライン登場。


 スカイラインのような歴史があり、なおかつユーザーからの期待も大きいクルマのモデルチェンジは難しい。何をもって「期待に応える」に値するのか、何をもって「スカイラインらしさ」になっていくのか・・・



http://www.favcars.com/nissan-skyline-gts-t-sedan-rcr32-1989-91-pictures-210093



 R32スカイラインのキーポイントは、やはり小さくなったことだったと思う。それは旧型に対し「走る」ことを自らアピールする行為であった。7代目の鈍重なスカイラインへの不評を両手で振り払うかのような「ダイエット」はそれ自体スカイライン・ファンのみならず、多くのクルマ好きから「よくぞやった」と諸手を挙げて歓迎された。


 車体を小さく軽くつくり、そこへ最新の高性能マルチリンクサスペンションを前後に、ローレルやセフィーロと同じ形式ながらよりチューンされた強力なエンジン。まるで水を得た魚のようにイキのいいスカイラインの走りが蘇った。


 なにより伊藤修令主管の、スカイラインの「あるべき像」がハッキリしていたということが大きい。様々な事情から「ハイソカー」にならざるを得なかった旧型スカイラインへの反省はもちろん、伊藤主管自身がスポーツカーは、スカイラインは、こうあるべきだというイメージが明確にあったということ、また、それが多くのスカイライン・ファン、クルマ好きの持つスカイライン像、スポーツカー像と合致していたことも事態をスムーズに運ばせた。


 社内にはダウンサイズに反対の意見もあったというが、伊藤主管は自らの信ずるところ、また、グループインタビューで得たユーザーの「生の声」を提示し、スカイラインの向かうべき先を説き伏せていった。


 日産自身もスカイラインを大切な財産と認識し、多くのユーザーもまたスカイラインへの大きな期待を持っている。こんなクルマはざらにない。ニーズや意見といった生易しいものではなく、スカイラインというクルマは「熱い想い」にあらゆる方向から支えられ、また導かれながら、きわめて純度の高いスポーツカーとなった。そして、ご存知のとおり現代に至るまでR32型スカイラインは歴代最良の称号を不動のものとしている。



http://www.favcars.com/images-nissan-skyline-gt-r-bnr32-1989-94-213580



 スカイラインGT-Rの復活は多くの人の悲願だった。最新の技術、他を寄せ付けない走り、レースでの強さ、これらをもってスカイラインはスカイラインと認識されていたが、ハコスカやケンメリを最後に、実はスカイラインというクルマ、他車との車台共有化の問題も伴いながら「一般化」の道を進んでいくことになる。そのことに多くのスカイライン・ファンは納得していなかった。


 スカイラインを作ることの難しさとはこういうところにある。輝かしい歴史やそれにともなう大きな期待が寄せられる一方、日産自動車というメジャーメーカーとして、確実にペイできるクルマ創りを行なう必要があり、スカイラインはそのはざまで揺れ動いていたとも言える。


 しかしそのモヤモヤもこのR32型で一気に解消してしまった。のちに伊藤主管自身の言葉として「予算は限られていた」と述べているが、そうした中でグレード数や採用エンジンを減らし、まさに選択と集中でスカイラインのスカイラインたる部分にとことん拘って作り上げられたのがR32型であり、GT-Rだった。


 その潔さにスカイラインをイメージさせたし、またスポーツマインドを連想させ、なにより多くの人びとがそれに共感していた。R32型スカイラインは新しい日産の「生き方」そのものだったのである。



 R32型スカイラインとGT-Rによって、いよいよ日産は完全復活を遂げた。



 暗く長いトンネルのような時期を経て、鬱積していたクルマ作りへの思いを丁寧に一つずつカタチにして行き、都度ユーザーの支持と共感を伴いながら、それはまるでひとつの共同体のような大きなエネルギーとして日産自動車に自信を与え、そして一寸の迷いもないクルマ創りによってもう一度名声をもたらしめた。


 R32型スカイラインで好きなエピソードがひとつある。ライバル、トヨタ・マークⅡの開発責任者、渡辺忠清氏はこのスカイラインに乗って、その走りにとても感銘を受け、強く影響を受けたとのちに(メディアに流れる形で)語っている。ライバルの製品をここまであからさまに褒め称えることは滅多にない。のちの90型マークⅡに走りを意識した「ツアラーシリーズ」を設定したのも、車体を軽量化して走りを磨いたのも、じつはスカイラインの影響だったのかも知れない。”日産現象”はあのトヨタさえも巻き込んだのだ。





つづく。





2016.10.6
前田恵祐

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