ペーパードライバーのキミへ 未分類1 2017年02月20日 僕の弟はペーパードライバーだ。それがこのあいだ珍しく僕を乗せて運転する機会があった。都内の混み合った道、首都高速、彼は、日頃から口うるさい僕を横に乗せながら、慣れない運転、クルマに緊張しながらおぼつかない走りに自信も持てない様子だった。 一時間後に目的地に到着しようというとき、僕は何かを言ってあげたほうがいいかなと思った。年間一万キロは走る、まあ、普通に走っている運転歴25年になろうという運転者の立場からなにかタメになるアドバイスはないだろうかと考えながら景色を眺めていた。 あまり長々と説明的に語り尽くすより、端的に短く一撃に言い表せる言葉はないだろうか。弟はクルマ好きというわけじゃないし、仕事も普通のサラリーマンだ。だから専門的なことも通じない可能性が高い。 もうすぐ目的地についてしまう。咄嗟に口を突いて出てきた言葉はこうだった。 「自分が人にされてイヤなことは自分もしない、運転も接遇と同じことだよ」 彼は客商売をしているから、こういう表現はけっこうすんなり理解するんじゃないかと思ったら、案の定、納得した様子だった。 合流してくるクルマとの間合いの取り方、譲り方、譲られ方、ブレーキの踏み方、追い越し方、ウインカーの上げ方、下げ方・・・じつはクルマの運転というものには「個人」というものが色濃く出る。そして、道路を走る中で、運転者は他のクルマ、他の運転者のことを、自分の目やミラーから見える範囲の「クルマの仕草」から自然と判断している。だとしたら、お互いに「良い印象」を与え合ったほうがいいに決まっている。 それは、「どんなことをイヤだと思うか」という想像力にも繋がる。むろん、ぶつかる、ぶつけられる、痛い思いをする、これはイヤに決まっている。しかしそういうところから注意深く、自分がされてイヤなこと=相手もきっとイヤであろうこと、への想像力を働かせ、あるいは鍛えていく、訓練していくというのが、例えばペーパードライバーが運転を上達させるための助けになるのではないだろうか。 今の世の中、とかく「人のせい」である。自己の義務を棚上げして他人の責任ばかりを追求するような、お門違いな考え方がはびこっているような気がする。そしてそれは、自動車の運転にも現れてはいないだろうか。 例えば、カメラを取り付けて安全装備を充実「させる」ことより、まず、自分から主体的に安全に気持ちよく走ろう、というような意気を欠いているような気がしてならないのだ。 人間というのは「生かされている」という面を否定しないが、この世に産み落とされた以上、「自ら生きる」ものでもある。人のせいにしてはならない。人や何かに任せてはいけない。委ねすぎてもいけない。人や何かの力を借りたり委ねたりできるのは、自分の力だけではどうにもならないときだけだ。少なくとも、気持ちの上ではそういう心構えが必要ではないだろうか。 モノに溢れている世の中ではモノは人を助けるために存在する。だから自己主体の精神というものは持ちにくい。物質社会とはそういうものだろう。しかしそのことには気がつかなければならない。思考し、判断し、行動するのは誰あろう人間なのだ。 そんな何もかも他人任せで、自ら磨いて上達しようと思いにくいような世の中にあって、やはりキーになるのは、他者への想像力を働かせる、あるいはその訓練をすることだったりすると思う。そして実社会でそれができるような人というのは、自然とスムーズで安全な運転ができる人、そういうセンスのある人なんじゃないだろうか、という気がする。 2017.2.20 前田恵祐 [19回]PR