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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

あの時、やり残したこと・・・UCF20系トヨタ・セルシオ



 セルシオというクルマ、最初はあまり好きじゃなかった。初代セルシオはメルセデスやBMW、ジャガー等をうならせるほどの素晴らしい出来で、それがイヤだった。ちょっとくらい商品力がオチても、ライバル、インフィニティQ45のほうの、あのアウトローな感じが僕にはしっくりきた。直球より変化球の方が合うというのは、女性の好みも同じだった。


 しかし、このカーセンターセレクト(仮名)という中古車店に雇ってもらって、セールスとして、店の主力商品であるセルシオに触れてみると、じつに完成度が高く、しかも日本人の、どこか控えめで清廉な精神構造にそっと寄り添うような奥ゆかしさが感じられ、欧州車と比べても走りの良さ、それは走りの良さの種類は違うけれど、これはこれでひとつのキャラクターになっている、という意味で、とくに二代目後期、UCF20系セルシオの出来にはとても感心させられた。これなら自信を持ってお客様におすすめできると思った。


 しかし、僕には売れなかった(笑)



https://www.favcars.com/pictures-toyota-celsior-ucf20-1997-2000-6795



 2000年当時、20セルシオのビカモノの中古車を買いに来るお客様というのは、それは当然今、セルシオを買いに来るタイプのお客様とは全然違った。2000年の前半までは20セルシオはかろうじて現行モデルだったから、新車の20セルシオと比較する人も少なくなかったし、この年の後半に登場する30セルシオが肥大化するという噂を聞いて、こちらを選ぶというタイプの方もいた。


 そして、もっとも特徴的なのは、シッカリした肩書きをお落ちの、社会的地位のある、つまり僕が、けっして避けているわけじゃないのに商談をまとめられないタイプの、シビアで厳しいお客様が非常に多かったということだ。やはりそういう厳しい方々をお相手させていただいて、お車をお世話させていただけるようになって初めてクルマ屋としては一人前。僕は、そういう意味ではずっと半人前だったかもしれない。


 セルシオの商談で、一番最初にお相手したのは市役所にお勤めの係長、市川さん(仮名)だった。


 その日は日曜日で、雨上がりの午後、彼は草野球の帰りにどろんこのユニフォームを着替えもせず、10セルシオの革シートにシートエプロンをかけて僕らの店にやってきた。10セルシオはとても綺麗に磨かれた黒の後期型で純正16インチ。マルチなしのB仕様で聞けば屋内保管だという。雨上がりだったので、洗車をしてさしあげた。


 市川さんの年齢は30歳代後半。ご両親と同居でそのご両親は地元で代々続く農家の土地持ち。とても身の上のしっかりとされた方である。喋ってみればとても物腰の柔らかい方でいつもニコニコしている。しかしセルシオというクルマのやはり抜け目のない完成度に対する思いはとてもあって、次もセルシオというのは必定という感じだった。


 お勧めしたのは1年落ち99年モノのB仕様eRバージョンのホワイトパールツートン。内装は黒本革ばかりのeRバージョンとしては珍しいベージュ本革、走行5000キロ538万円で出している極上ワンオーナー車だった。エアサスは避けたいとおっしゃる方も多く、そんな方々に、ヨーロッパ仕様の足廻りを持つeRバージョンはひとつの付加価値となって非常に魅力的な仕様と捉えられていた。


 ナンバーもついていたので、eRバージョンの試乗もする。10後期よりずっとシッカリした足廻りと正確性の高いハンドル、静粛性、ベージュインテリアの明るいことなど、すっかりお気に入りで、店に帰るとすぐにローンの審査、そしてローン会社も多額の頭金やお客様の身の上の確かさなどから二つ返事で審査通過。正式に契約書をお作りしてハンコは、、押さず、一度持ち帰らせてください、と言って、市川さんはその日は帰られた。どうしても両親の承諾が必要だというのだ。


 地元の名士でもあるお父様もクラウンが長く、今はメルセデスのSに乗っている。息子はセルシオに乗り、市役所勤務。絵に描いたような「堅い」家柄を想像させる。こちらとしても間違ったモノをお渡しすることはない。ユーザー仕入れだがその元のオーナーは我々を通じて新車を購入している、いわゆる「自社管理物件」。むろんディーラー整備で保証継承で納車する。無事故実メーターは我々の合言葉だった。文句のつけようがない。


 しかし。


 その夜、どうにも雲行きの怪しい電話が鳴った。両親があまり色好い反応をしないのだという。クルマなんて、しかも、もういい大人が自分で決めて自由に買えるものだと僕は思い込んでいたし自分もそうしていたが、彼の家ではそうではないということのようだ。やはり厳しい家柄なのだ。ご両親いわく・・・



「いい年にもなって親のすねをかじって、しかも、セルシオなんていう高価いクルマを乗り回して草野球にかまけるなんて、どういうつもりだ」



・・・との仰せ。


 市川さん本人はというと、それに反発できるでもなく、どうしたものかと悩んでいる様子だった。僕はその様子にどうしても違和感を感じるのである。それが僕の営業として、セールスとしてダメなところだったのだろう。


 自由にクルマを買う、買わない、以前に、彼は市川家の跡取りである。今は市役所勤務だがいずれ実家を継ぐであろう。そのために実家住まいをしているのでもある。そんな息子をありがたく思って溺愛するのもどうかと思うが、しかし市川家のように、過剰に行動を規制し、抑圧をするのもどうかと思う。まあ、厳しく育てることで、シッカリとした人間に育て上げたいと思う親心かもしれないが、クルマくらい好きにさせてやれよ、、、思った。



「分かりました、市川様。お待ちしますから、十分にご家族で検討いただければと思います」



・・・とだけ申し上げて電話を切った。


 しかしその様子を片耳そばだてて聞いていた僕の指導役、シャチョウは不満げだった。「もっとプッシュしろよ」というのである。自分の好きなクルマがそばにある喜び、こちらが間違いのないこの上ない良質なクルマを提供していること、なにより、自分の判断で自分の(クルマ)人生を切り開くことで得られる開放感などを、彼には知ってもらう必要があるんじゃないのか、そのことが彼にとってひとつの成長、殻を破ることになるんじゃないのか、シャチョウは僕に、説教というより、諭すようにそう忠告してくれた。まだまだプッシュが足りないというのは、オシが弱いとか、条件面が弱いとかいうより、クルマを手に入れる「意味」についてをきちんと提案できていないという意味で彼、シャチョウは僕に話してくれたのだった。


 たしかに、思い返してみれば、市川さんはちょっと優しすぎるような感じがして、悪く言うと優柔不断なタイプに思えた。そういう人は、自分で自分のことをなかなか決められないことが多い。ましてや発言力のある実家の両親のもとで暮らしていて、影響されすぎているようなところは否めないと、後になって思い起こしながらそう感じた。デキるセールスなら、そのようなことは商談中、試乗中にお話しながら充分に察して、トークに盛り込んでいくものだが、僕にはそれがまだ出来ていなかった、ということである。


 そして、その翌日。「やっぱり今回は」と切り出す市川さんからの電話を受けた。この期に及んで僕は昨日シャチョウから言われたことを思い出しながら食い下がったが、もう後の祭り。家族会議は紛糾し、どうしても買うなら勘当だ、とまで言われてしまったらしい。そんな家ならさっさと見切りをつけて家を出て自由にやればいいじゃないか、と、喉元まででかかったが、それは言わないことにして、第一回目僕のセルシオ商談はあっけなく終了した。


 その後。


 店の主力だったから 僕は何度も20セルシオの商談に臨んだ。お医者さん、税理士さん、警察官僚、NTTの重役などなど、本当に世の中で地位の高い人たちが買い求めに来る、国産最高のクルマだった。僕以外、シャチョウや先輩の僕よりずっとズボラなオカダくんでさえ、バンバン売れるセルシオなのに、僕は連戦連敗。新車に持っていかれることもあったし、見積もりを見て首をすこし傾げられてそれで終わったこともあるし、でもそれら全てはどうにもあの時のトラウマ、市川さんとの商談がうまくいかなかった記憶に囚われて、実力を出せなかったためじゃないかと今でも思っている。


 この時の、僕にはセルシオが一台も売れなかった、という一件を今でも思い出す。そして、クルマって一体何なんだろうと思っては反芻するのである。


 2000年当時のトヨタ・セルシオはたしかに高級車であり、高額車である。であるがゆえに、自分の喜びのみならず、自分の周囲や家族、社会に対する影響というものも小さくない買い物になるのである。その意味で、セルシオ、高級車は社会に組み込まれた、非常に自由にままならない商品であると思ったのである。家族の目、会社の目、世間の目。そうした、無言の抑圧の中で彼ら、当時の高級車オーナーは生きているのであると思った。そして、僕はといえば、そういう人生をまるで否定する、自由な生き方を好み、実践しているような人間だったから、まるでソリがあわない人種のお客様たちであったことは確かだったと思う。


 彼らはそうして、「社会」の一部に精神面まで組み込まれて、行動を規制されて、何が嬉しかったのだろう。クルマというのは自由の象徴のようなものなのに、自分のプライバシーや人生観の象徴でさえあるというのにだ。


 でも、きっと彼らはその「組み込まれた」感じが、会社や社会や世間への忠誠の証拠のようなもので、やはり僕には想像できない心地よさだったのだと思う。その、「組み込まれた」象徴のひとつとしてセルシオのようなクルマを自分の人生に組み込む。


 そして、そんな彼らの心理をこのように、当時の僕が自ら咀嚼し理解に及んでいたら、それはもう無敵のトップセールスになれていたのだろうし、仮に、事実と同様一年でクルマ業界から足を洗ったとしても、僕のその後の勤め人や、あるいは、書き手としての人生さえも、大きく違ったものになっていたのかもしれないと思ったりもする。


 そいつだけは、やや悔やまれることなのである。







2018.2.2
前田恵祐

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