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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

あの頃の日産が良かった理由~序文


 ここ何年もの間、僕は個人的に自動車業界に対してフラストレーションが溜まりっぱなしである。バブルの時代を経て過剰なコストダウンに走り、合理化に次ぐ合理化、採算最重要視の姿勢でクルマ作りを行なっている姿に往年の輝きはない。そんな想いの中、例えばバブル時代、というより、その手前からの日産自動車が、凋落の一途をたどっていた中でなにをきっかけに自分たちの「クルマ創り」を取り戻し、輝かしい名声を得るに至ったのかを、いささか駆け足にはなるがいくつかの点を線で結ぶように追いかけて見たいと考え、このシリーズを思い立った。


 石油危機に排ガス対策など、1970年代から80年代前半にかけての自動車業界は一頃の勢いを失っていた。省エネに排ガスのクリーン化という命題は莫大なマンパワーと資金を要し、とても先々を読んだ「新しい」自動車創りには向かっていけない状況だったのだと思う。しかし、1981年のトヨタ・ソアラの登場を皮切りに、高級化にパワーウォーズの巨大な渦が巻き起こり、各社とも先進技術の開発や、より未来を見据えた新しい価値観の創造にしのぎを削っていった。


 ところが、日産自動車はその波にうまく乗れていなかったと思う。ソアラと同じセグメントになるレパードは歯が立たず、フェアレディZも旧態依然としたまま。スカイラインRSターボが一人気を吐いていた感があったが、それもスカイラインファンにとっては新しいパワフルな「6気筒」を積んでいないという観点から不満の声も聞かれた。


 「技術の日産」は明らかに停滞していた。


 日産の社内には、古くからの労使問題が常に横たわっていて、縦割り行政的な権力主義的組織構造が幅を利かせ、そこから自由で新しい発想やチャレンジのようなものはとても生まれていく状況ではなかった、という事情もある。そのことがさらなる足かせとなっていき、日産車は他社と比べて保守的で古臭く、「遅れている」という印象が常に付きまとった。


 組織が大きくなればなるほど、自由な発想や自由な発言は許されにくくなり、組織立った行動をとらざるを得なくなる。常に上司の顔を見ながらの仕事に、きっと当時の彼らにも憤懣は溜まっていく一方だったのではないだろうか。ましてやライバルからの遅れをどうしても取り戻せない、日産マンとしての誇り、プライドはズタズタに傷つけられていく一途だったであろう。


 しかし物事には「振り子の原理」というものがある。一時ネガティブな方向に振り切れた後、また別の新しいエネルギーが働いて、それまでとはまるで異なる、ポジティブな考え方や行動が、嘘のように古い価値観を刷新してしまうということもある。マグマが溜まり込んで、一気に爆発、噴火するかのように、自体が急転、急変してしまう・・・


 今思えば、1980年代後半における日産自動車の変容ぶりは、まさしく火山の噴火のように起こっていった、そんなふうに見えてくるのである・・・



つづく。



http://www.favcars.com/images-nissan-leopard-coupe-f30-1980-86-209024





2016.10.2
前田恵祐

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