先生は全てお見通し・・・R170型ベンツSLK230 僕は新人トップセールス 2017年12月21日 今でこそポピュラーだけど、登校拒否というのは、僕の時代、ということはおおよそ30年前には「ノイローゼ」の一種みたいに扱われて、そして世の中的には蓋をすべき臭い物、であり、誰もが関わり合いたくない、避けて通りたいという、そういう子供、という扱いだった。だからして、僕の子供時代というのはそういう「カラー」で彩られていた。 どうして中学しか出ていないの?と、仕事の面接でも誰もが触れようとしなかったが、そのことがむしろ僕を孤立させる、世間とのズレの象徴だった。転職した先の、この横浜の中古車店「カーセンターセレクト(むろん仮名)」のシャチョウの面接で特徴的だったのは「さしつかえなければだけど、なにかあったの?」とそこに触れてくれたことだった。この人の下でならやっていけるかもしれない、そういう感触があった。むろん、僕は素直に答えた。「わかった。じゃあ、キミの力を貸してください」とだけ、シャチョウは言った。 心のしこり、というか、汚点、じゃないけど、引きずるべき過去を引きずりながら生きていたような気がする。でもそれはあまり人には話さなかったし、当然お客様には関係のないことだから、僕は「スカッと爽やか」な営業マンとして仕事を楽しむことにしていた。 平成12年11月。その人の電話は第一声からしてとてもユニークだった。 「あのぉ、外国車ってやっぱりお金、かかりますか?壊れるんでしょうか?」 「そうですねえ、たしかに国産車より故障はありますが、今は保証制度も充実していまして、弊社の取り扱い車種は全て、インポーターにより付帯された保証を継承できる優良商品ばかりです」 少し噛み砕いてご説明したのは、この50歳代前後と思われるご婦人があまり輸入車、それよりクルマのことに詳しくないと想像できる口ぶりだったこと、でも、こうした慎重な話しぶりのお客様にこそ、足元を見ることなく誠実に対応することが大切であると思った。 「峯岸(仮名)と申します。こんどのお休みの日にお邪魔してよろしいかしら。銀色のベンツ、見たいと思っているの」 「もちろんでございます。C200セダンでございますね」 https://www.favcars.com/mitsubishi-galant-2000-gsr-x-turbo-v-1983-85-pictures-9451 ※色違い 次の週末。峯岸さんが乗ってきたのは昭和59年式ギャランシグマのターボ車だった。 「これはね、私が教務主任になった年に買ったクルマなの」 ・・・といって、にっこり笑った峯岸さんは、つまり、峯岸先生、だった。聞けば現在横浜市内の小学校で副校長をしていらっしゃるという。小柄だが背筋がピンと張っていて、明るく爽やかな笑顔。でも怒らせたら怖そうな先生だなあ、と思った。こちらも少し背筋が伸びる。ベテラン教諭特有のオーラがあった。白墨のニオイがするような気がした。 「先生、ターボ付きにお乗りなんですね」 「これでよく主人の実家の岐阜まで、トバしたわよ(笑)。でもその主人もね、半年前に”お先に失礼”してしまったの」 ご主人を病気で亡くされたばかりのようだ。しかし、峯岸先生は毎日子供達と接していると悲しみなんか吹っ飛んでしまうといってニコニコしていらっしゃる。ああ、この先生は本当に教職というものに愛着があって、まさに天職なのだろうな、と思うと同時に、このベテラン教諭を前に、元登校拒否児の僕はどうも足がすくんでしまうような気もした。 「あら、私が欲しいのはこれじゃないのよォ」 98年型メルセデスC200セダン、ワンオーナー禁煙、走行9000km、メルセデスケア付きのピカピカのこのクルマをさらにピカピカにして準備していたら、あっさり違うと言われてしまった。 「屋根が自動で畳み込まれるオープンカー・・・ああ、この348万円の・・・」 https://www.favcars.com/mercedes-benz-slk-230-kompressor-uk-spec-r170-1996-2000-wallpapers-261494 先生が指し示す先にあったのは、SLK230コンプレッサーだった。99年モデル、ワンオーナー禁煙の5000km走行、もちろんメルセデスケア付き。これでしたか・・・ 「わたし、似合わないかしら。これで学校に行ったら、みんな、なんて言うかしらね」 ・・・というふうに、訊ねてくる時点で、多くの場合答えはもう出ている。自分で似合うと思っているし、そう思って実物を見に来ている。このクルマに乗って児童たちの視線を浴びながら登校する姿が、東名をぶっ飛ばしている自分の姿が、もう、峯岸先生の頭の中には出来上がっている、僕はそう思った。 ところがその日、峯岸先生は見積もりだけを持って帰ってしまった。シャチョウのダメ出しが入る。 「オマエ、先生だって判って遠慮してんだろ?オマエの誠意がちゃんと伝わってねえよ、ニガテ意識丸出しな(笑)」 C200セダンだと思っていたらSLKがお目当てだったりして出鼻をくじかれた、というのは、いちおう表向きな言い訳だったが、シャチョウの眼はごまかせない。 以降、電話攻勢で攻めるしかない。放課後を狙って、帰宅時刻を狙って。お休みの日を狙ったら電話の向こうがワイワイガヤガヤしている。文化祭の仮装コンテストに出場するところで、「モー娘の矢口真里に変装しているのよ!」と言われガチャ切りされたりもした。電話の度に値段の話になったり条件の話になったりと、結局はぐらかされている感が充満し始め、これは無理だな、と思ったクリスマス前。 「そう、わかったわ。じゃあ明日、買いに行きますから」 ・・・えぇ~~マジで!、、となったのは僕のみならず、シャチョウも同じだった。あの諦めの悪いシャチョウもこりゃダメだ、と思っていた、が、突如買いに来てくれることになった。オークションに出さなくてよかった。だって、またとない上玉のSLKだもの。 「前田さんの粘り勝ちね」 にっこり笑って、先生は開口一番そう言った。粘ったつもりはないけれど、既に思い入れをお持ちで、このクルマとともに在るご自分の姿も描いていらっしゃるなら、そのお手伝いをしたいと思って、電話の度にお話しし続けた。じつは先生はヤナセの認定中古車も見に行かれていたようだったが、曰く・・・ 「ヤナセなら間違いないし、正直いって向こうのほうが条件も良かったけれど、でも、あなたから買いたいと思ったのよ」 「ベテランの先生に、そう仰っていただけて光栄です」 「ベテランは余計ですから(笑) でも、教師は公正に人を評価するのが仕事なのよ」 「いやぁ、峯岸先生のような先生にもっと早くに出会っていれば・・・」 「あなた、学校、行ってなかったでしょう?(笑)」 「どうしてわかるんですか!!」 突然の指摘に思わずギョッとしてしまう。もしかして、僕の名前は横浜市教育委員会の中では知れ渡っているのかな、指導に難渋した生徒として・・・ゾッとしながら契約書の支度をする手のひらにジワリと汗がにじむ。 しかし・・・ 「やっぱり、そうよね?わかりますとも、ベテランですから(笑)」 先生には全てお見通しだった。すごい眼力だと思った。 「そういう子特有の目をしているから。不登校の子はみんなそう。悩んでいるけど、とてもまっすぐな目をしているわね。でも、あなたがこうして立派に社会人として活躍している姿はきっと悩んでいる子たちにとって希望の光になるわ。自信を持ちなさい」 つまり、僕が登校拒否、不登校だったから、僕からSLKを買うことにした、先生はそう仰ってくださっている。登校拒否が、まさかベテラン教師を口説き落とす「武器」になろうとは、想像だにしなかった。 契約書の内訳は車両本体価格に正規の諸費用を加え、下取りのシグマターボに10万円をつけさせていただき、合計額から千円以下の端数をカットする内容で提示させていただいた。自信ある商品、自信ある清廉明瞭な価格設定。何も恥じることはない、何も引け目を感じることはない。正々堂々、社会人として胸を張り誇りと矜持を持ち職務にあたる。それが峯岸先生が与えてくださった「評価」への僕からの回答だと思った。 「そうよ。それでよろしい!」 峯岸先生はそう言うと、にっこり笑って契約書に判を突いてくださった。 作文にハナマルをもらったような気分が蘇った。 契約締結後ではあったが、試乗に出かけることになった。出発前、寒いのにSLKのセールスポイント、バリオルーフを開ける。 「わぁー、ステキじゃない、裕さんのベンツみたい!うちの人も裕次郎っていうのよ!」 なるほど、先生は石原裕次郎ファン。聞けば毎年命日には総持寺をお参りするのだそうだ。試乗から戻るとさきほどのやりとりを後ろで聞いていたシャチョウが待ち構えていて突然切り出す。 「先生、実はうちの娘、最近学校に行きたがらなくて困っているんです」 すると。 「なに言ってるの!アンタは典型的な非行少年の顔ね。学校に行きたくない理由なんて、アンタが一番わかってるでしょ!困ったら前田さんに相談なさい!」 と、先生に一蹴されてしまった。そうは言っても僕から学校に行きたくない子やその親へのアドバイスなんてあったもんじゃなくて、僕の親と同じように、放っておくのが一番ですよ、好きなことをさせておくのが一番ですよ、くらいのことしか言えない。 僕が初めて学校に行かなくなった1988年1月から、もうすぐ30年が経過しようとしている。レールを逸脱した僕のそこからの人生はキツいワインディングロードさながらであったと思う。その間、色々な人との様々な出会いがあって、そうした中から励まされたり、力を貸していただいたりしながらここまでやってきた。そういう30年だった。でも、実際に地面を踏みしめステアリングを握り、諦めずにスロットルを煽り続けたのは誰あろう自分自身であったと自信を持って言える。 そう思い至らしめてくれるのも、峯岸先生との出会いがあったから、今はそんな気がしてならないのである。 2017.12.21記 前田恵祐 [35回]PR