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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

意のままに走る、それは違う





 自動車とは、ドライバーの意のままに走ることを良しとされ、我々書き手もクルマがいかに素直に反応するか、気持ちよく動いてくれるかについてを書き立てる。メーカーもそれに同調して加速性能、ハンドリング性能、ブレーキ性能などを向上させたといった旨のリリースを出す。これが今現在の自動車に関するダイナミック性能における常識としてまかり通っている。しかしクルマはどこまで胸のすく加速を得たり、気持ちよくコーナーを駆け抜けたり、命令のままに止まる、服従する性能を高めていけばいいのだろうか。


 そもそも自動車とは1トンや2トンの鉄の塊が様々な装置の補助を介して時速100Km/H以上の高速走行、移動を可能とする、地球の重力や遠心力と戦っている乗り物だ。重ければ重いほど、タイアの摩擦力は高くなり、簡単に言うと動きにくくなる。人間にだって「腰が重い」という言葉があるように、何かが動く、何かを動かすという行為には、この地球上に居る限り、多少なりとも抵抗が生じるというのが大原則だ。


 それを軽減させ、時に快適に、時に心地よく、快く動かそうと努力しているのが今の自動車だと思ってもらいたい。それに対し、やれハンドリングがいいだの限界が高いだの低いだのと宣うのはじつに簡単なことだ。我々は「クルマの側」の善し悪しばかりに気を取られすぎている。あれだけの重量物がまるで人間の手足のように動く、動かそうとすること自体、どだい無理な話、そう思ったほうが自然ではないだろうか。


 私はいま付き合いのある媒体から「クルマの運転が上手くなる方法」といった内容の投稿を求められて少し考えた。しかしクルマの性能がいかに良くなろうと、あるいは良くなればなるほど、運転はザツになり、人間は運転が下手になっていくという結論に達した。媒体にも他の記事で書いたが、パワステのなかった頃の運転をタクシードライバーから聞いた話、またパワステ登場以降、どんどんザツになっていったという話。人間は、ドライバーはクルマの性能の良さに依存し、主体性を失い、積極的にコントロールするということを忘れているのではないか。


 クルマはそもそも動かしにくいもの、思い通りになりにくいもの、その前提に立ったほうが遥かに「運転が上手くなる」ように思う。


 ドライバーとしてどのようなインプットをすればクルマはキレイに、スムーズに、気持ちよく働き、動いてくれるのか、というところに立ち至ることができるなら、あなたはドライバーとしての資質をさらに高めることができるはずだ。どのようにクラッチをつなげばキレイに発進するのか、アクセルを踏み込むべき時とそうでない時、これもクルマからの声に耳を傾ければ自ずと判断が出来る。ハンドル、ブレーキにしても同じ。クルマはそれぞれに性格が異なるから、それぞれの性格を認識する必要がある。そのためには声無き声に耳を傾けられる「謙虚な姿勢」と「コミュニケーション力」がものをいう。


 話を聞いて、認識して、その上で言葉を発する、これが人同士のコミュニケーションのあり方だとするなら、クルマにおいてもそれは同じことではないか。ザツで乱暴で独りよがりなドライバーは五万といるが、そのくせ「上手くなりたい」とは思っている。しかしその術を全く知ろうとはしない。うまくいかないのはすべて機械のせい、他人のせい、こうした主体責任感のなさ、他者依存の強い「現代人特有の精神構造」を、じつは「運転が上手くなりたい」のテーマからも見て取れる。


 メーカーはいかに人間に楽をさせるか、自社製品にはどれだけその性能がありそのことにいかに取り組んでいるかをアピールする。しかしそれも、実際にメーカーの手を離れ操るのはドライバー自身のことだ。最近のクルマはどんな運転をしても補正技術が発達し、まず安全性は高まってきているし、また運転操作自体に対する「受容性」を広く採って、どんなタイプの運転操作にもクルマは無難に反応するように作られる傾向がある。しかし、そのことが運転者には「事実」を隠蔽し、ザツな操作を許容し、そして地球との重力や遠心力との間で自分のクルマに「何が起こっているのか」を想像させる材料さえ奪い取ってしまう。そしてさらに運転はザツになっていく、この悪循環だ。


 いや、しかしメーカーだけの責任では、これはない。ドライバーの側の想像力やコミュニケーション力の問題であるし、その問題を取り扱ったり提起することのできないマスコミの問題でもある。で、このようなことを媒体に書くと、それはイッパツで却下されるので私はここに書く事になるわけだけれど。ワサビが強すぎるとかなんとかで。


 そもそも、「運転が上手くなる方法」誰かに聞いて済ませようという認識自体が間違っている。自動車という重量物の操縦やコントロールとは、元来困難なもので、慎重かつ繊細に取り扱わなければならないという大原則が、どこかに放置されたままのように思えてならない。自動車は進化して高性能にも安全にも便利にもなったが、重力や遠心力と戦っている原則は変わっていない。そして一歩間違えば人を殺め、自らも命を落としかねない危険な道具であるという認識が完全に薄れてしまっている。


 イージーを目指し、表面的にはイージーになった自動車の運転だが、それがドライバーの怠慢を生んでいるのだとしたら改善の余地がある。本当に運転が上手くなりたいと思っているなら自分のクルマととことん対話をすればいい。軽自動車だろうとハイブリッドカーだろうとミニバンだろうと、それぞれの性格を理解し、そのクルマが本当に気持ちよく動いてくれるためにはどのようなインプット、つまり操作をすればいいのか、ドライビングポジションをきちんと決めて、ミラーを合わせて、なんならオーディオのボリュームも落として、きちんと向き合えばいい。


 そして、歩行者や自転車を避けるためにはどのタイミングで認識しブレーキをかけられるのがベストなのか、それが急ブレーキになるのかならないのか、キレイに自車を止められるのか、そのためにはその場所をどれくらいの速度で走るのがいいのか・・・たとえばこんな側面ひとつ取っても自動車の運転とは他者への想像力が大きくモノを言う。これはクルマの性能や機能の高さとは全く異なる領域の話しだと認識していただきたい。


 自動車の運転に答えはない。常に最善の操作、最善の判断を要求されるのが自動車の運転なのだ。ぜひその緊張感をもって臨んでいただきたい。



前田恵祐
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