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前田恵祐は2018年5月18日、闘病の末この世を去りました。 故人の意思を尊重し、ブロクは閉じずにそのまま残すこととしました。 以前からの読者の方、初めてブログに訪れてくださった方もこれまでの記事をご覧にっていただけるとありがたく存じます。(遺族一同) 当ブログのURLリンク、内容、文章等を、他のwebサイト、SNS、掲示板等へ貼り付け拡散する行為、印字して配布する行為は、いかなる場合も禁止事項として固くお断りいたします。

運転という名の渇望



 2018年、年が明けてまた高齢者が自動車運転事故を起こし、若い、高校生を巻き込むという痛ましい事件が発生している。高齢者の運転免許問題はここ十年近くの世の中の課題になっているが、抜本的な解決方法が見つけられていないというのが現状だ。


 そもそも論になっていくようだけど、これ、やはり、またも僕の場合「男女雇用機会均等」云々に話を持っていくことになる。「主婦」という職業に十全の値打ちと誇りを保証さえしていれば、家庭というセーフティラインは守られる。子供の非行の問題、メンタルの問題、健康の問題、食の安全の問題・・・で、老人問題。家庭が十全に機能していれば、老人をしっかりケアできる。ま、この話はこの辺にしておこう。


 でもやっぱりクルマの運転というのは、理屈じゃないんだと思う。上手い下手の理屈、というよりも、運転したい、あるいは自らの意思で「自由を謳歌する象徴」みたいなモノで、それは人間にとって、非常に、生理的に快感、快楽を覚えるモノ・・・だから年老いてもなおクルマを手放したくない、自由を手放したくない、という衝動に駆られるのではないだろうか。


 むろん、老人による機能衰えとそれに伴う自分のみならぬ「命を巻き込む」という問題であるから、それひとつで片がつくことではない。しかし、反面で、人間のこの、どうしようもない心理、衝動、もっとアカデミックに言うなら「自由の権利」みたいなものへの渇望、を、もっときちんと捉えておかないと、ただただ老人を抑圧してそれでおしまい、絆創膏を貼ってそれでおしまい的な、低レベルな解決を見るにしかいたらないと思うがいかがか。


 筆者の父は齡74になるが、二年ほど前に運転免許は返納した。そんなに危ない目に遭ったわけではないが、自分で「これはあぶないかもしれない、自信がもてない」と思って、あっさりと免許は返納し、運転はリタイアした。立派な判断だったと思う。地元神奈川は、クルマがあったほうが多少は便利だけど、バスなどの交通網も普及しているし、なにより、父の場合足腰がまだまだ丈夫だから、自分の身体を動かしてなお十分に補える、その部分の自信がまだあったところも、返納の判断ポイントだったかもしれない。


 自動車を運転し、交通社会に繰り出すという行為は、そこには毅然とルールや法律、規律というものがある中で、いかに身をこなして行くかというチャレンジであり、それは老いも若きも同じことであり、そして、そのチャレンジが許され目的の場所に高速移動を成さしめる自由こそがクルマが人に与える自由であり、先にも述べた快楽というものだろう。そしてそれは老いも若きも、誰もが楽しいと思い、チャレンジする価値のあることだと思っている。


 だから、運転がAIに取って代わる、自動運転になっていく、というのは、「運転弱者」「交通弱者」という一つの社会標語的な「現象」の「一面」を捉えた結果に過ぎず、筆者がここで述べてきている人間のもつ根底的な「渇望」への回答には到底なっていない。自分の意志でハンドルを操作し、移動すること、目的の場所へ到達、達成成さしめることが大事なのだ。


 もっというと、運転がAIに代わったところで、どうしたって自分で運転したい老人はこっそり目を盗んで自分で運転しようとするだろう。家族がいかに、必死で止めようとも。


 ここで思うのが、現代の高齢者世代が、自動車免許を取得した時に、どんな教育を受けたのか、ということだろう。このことにはあまり焦点が当たっていない気がする。筆者の世代(取得は90年代)は高速交通網の拡充が進んでいる時代で、高速移動におけるリスクとはどんなものなのか、人間が些細な見落としをすることで、自動車がどんな重大な事故を引き起こしていくのか、といったような教育が、かなりきちんとされていた(と自分では感じている)と思うのだが、今の高齢者にそこまでの交通教育がなされていたとは思えない。


 日本はまだモータリゼーション黎明期で、まだなにもかもが手探り状態。クルマの大量生産は国の一大プロジェクトであり、自動車にまつわる様々な問題やリスクが明瞭に捉えられていなかった、あるいは、そこに到達さえしていなかったと考えられる。


「自分は大丈夫だ」と思い込んでしまうのは、なにも老人になったことによる思考の硬直化や、喧しい家族に対する反抗心だけではなく、そもそも、交通基礎教育が、あの頃まだそこまでのリスクに踏み込めていなかったことが、判断を緩ませている要因なのではないだろうか。シートベルトなんか今は当たり前だが、そんなもの、なくて当たり前だった時代の人たちなのだ。簡単に言うなら。


 老人が若人を巻き込む自動車交通事故を起こし、痛ましいことになって、しかし、それに対し本人の責任能力だとか親族の保護責任だとかをいうのは、「法律上」重要なことかもしれないが、生身の人間が今直面している問題の捉え方としては正しくない。媒体の記事にもその杓子定規な「法律上」「倫理上」といった観点の硬直した記事しか見られないが、問題の根源はもっと別のところにある。


 運転という行為を、人間が自由を感ずる、あるいは渇望する行為である、ということをまず捉えておかないと、誰にとっても幸せな解決方法は見つけられないと思う。





2018.1.12
前田恵祐

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